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慢性

明日の読書会は、アーサー・クラインマンの『病いの語り』とバイロングッドの『医療・合理性・経験』を読む。
担当があたっているのは後者だったので、ぎりぎりになってもう1つを読んだ。

おもに扱われている題材は慢性の病の患者の語り。
糖尿病や腰痛から、高血圧に虚偽性の病など、読んでいるだけで重いものがのしかかってくるような感じ。
語りの力を再確認。

僕も1年から2年の周期で定期的にやってくる偏頭痛に苦しめられている。
大体2週間ほど激しく痛んで治ってしまうのだが、その間はほとんど苦しむ屍のようなものだ。
前回は、フィリピンでの調査終盤にやってきて、まったく何もできなくてずいぶん焦ったのを覚えている。

そんな経験と照らし合わせてみると、生物医学一辺倒のケアより、病の「経験」を重視するべきだというクラインマンの主張もよくわかる。医者に頭痛の原因を説明されて(ほとんどの医者はそれすらしてくれなかった)、根本的に治るわけではない気休めの薬をもらっても、あの「いつやってくるか」という痛みを待つ恐怖感が消え去るわけではない。頭痛は、単なる疾病であることを超えて、僕の人生の構成要素となっている。頭痛と共に生きるというより、生きていることの中にすでに頭痛は包含されている。

フィリピンの民間医療の研究をしながら僕がたまに悩むのは、どれだけ現場に通って「彼ら」にとって民間医療がリアルなものだと主張してみたところで、「じゃあ、お前も病気のときは病院じゃなくて呪医のところに行けよ」と言われたらやはり困ってしまうということ。そういう僕の中には、やはりどうしても消せない生物医学的な考え方があって、「治療」は「効果」があるから意味があるのだと信仰しているのだろう。

だからといって、じゃあ「フィリピンの民間医療には生物医学的な意味での治療効果はまったくないが、呪医と患者の儀礼や語りの相互交渉の中で病を経験として組織し理解可能なものにしている」というオチに性急に飛びつくわけではないが、もう少し病むことについての常識や固定概念を揺さぶってみる必要はあるかもしれない。

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