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他者と差異について(miyake氏へのレス)

誕生日は粗悪なラムのtagay(まわしのみ)で大ダメージ。
今日は何とか統計局と病院で数字を集める。
頭はまだ重い。

昨日の投稿にMiyake氏がレスポンドしてくれたのでトラックバック返し。
健全なやりとりで思考が進む。こういうのは大歓迎。
しかしこの人、本当に経営学者なんだろうか?

昨日の前提にあったのは、フィールドワーク先を「故郷」とよんだり調査対象者を「家族」とか「友人」とかって人類学者が呼ぶときに忘れているものは何だろうか、という話。もちろん、自分への自戒を含めて。そういう聞こえのいい言葉で飾り立てる前に、多くが第三世界に属する彼らと僕らの間にはmiyake氏が指摘するような歴然とした不均衡な関係性がある。その目が笑っていない笑顔。厚い面の皮は羊の皮で覆い隠されているとしたら?

しかしながら、多少の弁護をするならば、政治・経済的な、あるいは歴史的な不平等/不均衡を背景としながら、人類学者と調査地の人々の間に何かしら「共感」のようなものが生じているのも事実だろう。看守と囚人、誘拐犯と誘拐された人の間にも友情や愛情が芽生えるかもしれないように。

この不均衡な関係性と、それを前提としながら魔術的に成立してしまう共感という、一見成り立ち得ないようなバランス。そんな危ういスペースの上に僕らは立っている。今、僕は「僕ら」といっただろうか?それはいったい誰だというのか?

そこで、「僕ら」というのを人類学者だけでなく、日本でワークするmiyake氏のような経営学者や、友人のKみたいな社会学者にひらいてみたい。どうも、それほど人類学的「僕ら」はその他の「僕ら」と隔たっているように思えないのは、僕だけだろうか?
たしかに、フィリピンよりアフリカより、日本国内の方が物理的なアクセスに関して双方向だといえるだろう。しかし、たとえば在日フィリピン人の増加という1つの現象を考えてみても、アクセス自体はむしろ双方向に頻繁になっていて、それでも力関係の不均衡さ事体が保存されているという矛盾の方が前景化している。つまり、アクセスの対称性は、そのまま関係性の対称性を意味してはいない。双方向のアクセスが最大限に可能な日本の調査者と被調査者においてもそれは当てはまるのではないだろうか。

僕が昨日の友人との会話から一番強く感じたのは、フィールドワークの目的合理性だ。学問的営為としてのフィールドワークにおいて、被調査者は調査者の何らかの目的の対象であり、そこに「知=権力」を媒介とした関係性が成立してしまう。
実は僕もフィールドで将来をよく心配されるのだが、そのような被調査者による調査者のライフについての語りという一見双方向な関係も、その調査者が一度大学に研究職として就職したとしたら、「先生」という呼称とともにいつ非対称なものに変化してしまうかもわからない。
(失墜した「知」につねにすでに権力などないというかもしれないが、僕自信はそのシンボリックな力は相変わらず作用し続けていると考えている。悲しいし無意味だけれど。僕らは「ベトナム」とか「9・11」と同じくらい「東大」という言葉にびっくりするくらいの意味を読み込んでしまう。)

結局何がいいたいかというと、「他者」についての(実践も思考も含めた)あらゆる営みについて、確固たる主体と客体を想定する事に僕はそれほど意味を見出していないということだ。

人類学者/経営学者or社会学者が、外国人/日本人と関係する際に生じるのは、あくまでその間にある差異そのものであり、それぞれの差異は主客の2分法を超え、関係性と共感という危ういバランスの上に成立する一回性、個別的なものだと僕は考えている。その時、どちらの差異がより大きいか/激しいか/暴力的かという「差異の差異」をメタレベルで評するには僕はまだ力が足りない(レヴィ=ストロースはそんなことを考えていたのではないだろうか?)

繰り返すが、「他者」とは差異の先に立ち現れてくる。それが何学であれ、あるいは学問を離れた日々の人間関係であれ、「他者」は差異あるところどこにでも偏在する。先立つのは差異であり、他者ではない。それはある主体と客体の間にあるよりも、差異そのものの個別一回性のスペースから瞬間瞬間に生起し続けるようなものだと考えている。

それゆえ、フィールドワーカーがどうしてこれほど面倒で気が狂うほど遠回りなフィールドワークにむかうのかというと、そのようにしてしか捉えられない微細な差異の生成現場に居合わせることを選ぶからだろう。どこにでもあり、そして、そこにしかないものへ。

現場で考えるとただでさえ冗長な僕の思考は容易に混線してしまうので、もうやめることにする。最後にmiyake氏へのreplyとして、僕ももしここで出会った人たちとのつながりを断ち切らなければいけないとすれば、呼吸ができなくなるくらいの苦しみを感じると伝えたい。こういうことをヒューマンに語れば三日三晩かたり続けても終わりはない。ただ、もしそれがそうならざるをえない不均衡な関係性に埋め込まれたものであるならば、それ自体を認める事から始めるというのが僕のスタンスになる。そして、その関係性を辿り直し、語り直すことの先に関係性自体のシフトがありえるのか(これが学習2から学習3へということだろうか?)。それは「共感」の語り方を呪術的諸実践から考えていく僕の現在のプロジェクトのゴールへと向かい、それゆえ今の僕にはそれを語る言葉がない。

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Comments

今回はほんとすみません。最初はなんの気なしに書いてみたのですが(一度トラックバックというやつをやってみたかった)、どんどん自分の心の中をのぞいていくと、えらくどろどろしていましたし、自分の弱さが身にしみました。お騒がせしました。調査、お気をつけて。良い成果が上がるのを祈っております。

Posted by: miyake | January 28, 2005 01:08 PM

とんでもない。むしろ楽しんでいます。いつも大体無為なモノローグを綴っているので、対話を経由するといいたかったことがはっきりしていいですね。

他者について考えたり実践したりする者が、自分と正直に向かい合う勇気がなかった場合、あるいは少なくともそういう気を起こす感覚が欠如していたとしたら、それは親切顔の侵略者と変わらないでしょう。

また、研究会でお会いするのを楽しみにしています。

Posted by: azuma | January 28, 2005 01:17 PM

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Tracked on January 28, 2005 01:24 AM

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Tracked on December 11, 2005 05:35 PM

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Tracked on December 11, 2005 05:37 PM

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