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文化資本

昨日Fさんと話していて、某科研合宿で同部屋になるはずの人は、彼の親戚だということが判明した。彼のお父さんは、某私立大学の教授だ。ついでに言うと、そのとき一緒にいたRのお兄ちゃんは、某国立大で人類学を学んでいるという。

これまでの人生を振り改めて返ってみて、研究者なんて人種は世界の極々わずかな割合を占めているに過ぎなかった。それが、ここ数年の僕の周辺には、何らかの形で家族が研究に関係している人が大増殖。小・中・高の教師など教育関係まで含めると、僕の方がはっきりとマイノリティだと自信を持っていえる。

それは、知識人のハビトゥスとでも呼べばいいのか。
別にきっと何か口に出してこうしろああしろと育てられてきたわけではないだろう。日常的な会話、テレビを見ながらのコメント(見ない人もいるだろうけど)や、家に当然の如くおいてある書籍の風景などから、まったく自然に身についてしまったもの。そして、人生の経路を気づかない内に知識の集積している方向へと押しやるもの。

はっきりと、そういうものに対して僕はルサンチマンを感じていると思う。
もう一々書くのも面倒になってしまうほど、知(=権力)が少ない方へとスライドしていく僕の周囲の環境を思い出して、幼い頃にあの匂いがキライでキライで仕方なかったことを思い出す。それを思い出して、今の自分のエセぶりを自覚してもっと胸が苦しくなるという悪循環。

身を削って紡ぎあげたものが、もしかしたら文化資本の欠如によって決定的に間違いであるかもしれないという不安に苛まれながら、それでも僕がこの場所でしかできないものがきっとあると強がって見せる毎日に終わりは来るのだろうか。ただし、その時は、「僕もついに身につけたよ」って余裕かます以外のルートで解放されたい。

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Comments

突然変異の哀しみ、っていうんですかね。でも確かにこういうことはありますよね。言ってみれば我々は「初代のインテリ」なんですよね。こういう立場の人間は常に自分の学問が偽物なのではないか、という疑念に囚われやすいんだそうですが。でも僕は信じているんですが、我々のような「初代インテリ」だから発見できる事実というか構想できる仮説というか、当たり前と思わないことによる思想の自由とか、そういうものが強みとしてあると思うんですよ。もちろんそういう学者の家に生まれた友人にしか出来ないだろうことへの尊敬とか敬意とか、それももちろんあるんですが。自分にしか出来なさそうなことがあることの喜びは、まさに初代のオリジナルの喜びではないで沿うか。教養とかって、別に一子相伝の秘術があるわけじゃないしね。

Posted by: miyake | February 26, 2005 01:45 AM

僕も同じくそう願います。まったく。それでも、強力に伝承されてきた何かへの怯えも拭い去れないというのも事実です。

Posted by: azuma | February 26, 2005 10:54 AM

同じようなことを、ぼくも今の所属になってすごく思いました。親が大学の教員という人間はかつて一人も見たことなかったのに、そこにはぞろぞろいるという。そしてそういう人たちを見ていると、明らかに研究者=大学教員としてやっていく上での細かい常識というか知識というかが自然に身についているんですよね。彼らにとっては当たり前のことなのに、こっちにとっては、え、なにそれみたいなことがたくさんある。一時は結構それにすごくルサンチマン&反発して、ことさらに彼らと自分の違いを強調して、雑草の優位性みたいのを無理やり主張していました。今はさほどでもなくなりましたが。でもこの文化資本の差は多分埋められないので、何かしら持たざるものならではの経験の強みみたいのを、研究上で生かしていかないと対抗できないというのはあるのでは。そして幸いなことに、人類学はそれがしやすい学問だと思います。自分の今までやってきたことの背景には、そういう戦略的なものも実はありました。でもまあスマートにやらないと、うっとうしい&反感を買うだけというのがあるので気をつけないといけませんが。

Posted by: J-P | February 26, 2005 08:45 PM

なんか「ええとこのこ」が見たらけっこうむくれそうな方向に行ってますが、あの人たちはあの人たちで頑張っているんでしょうけれど、我々叩き上げ組はまずなにをどう頑張っていいかわからない状態から歩き出すんですよね。ただ、いわゆる「文化資本論」はあれは学歴競争の話で、我々は職業としてのキャリアアップの話だからそれがいわゆる学歴競争のような勝ち負けの基準が一次元で決まるような競争ではなくて、学者・研究者として大成するのはもっと多次元的価値観に則っているのでしょうから単純な比較は出来ませんが。ぼくはJーPさんほど格好をつけていられない分野にいると思うので、なりふり構わず、うっとおしかろうが反感買おうが気にせず自分の信じる道を進むだけです。

Posted by: miyake | February 27, 2005 12:35 AM

 なんか、この話題少し盛り上がりましたね。けっこう、同じように感じている人も多いのかも。しかし、多分対岸の方では、そういうことを意識したことがない位に身にしみこんでしまっているというのが憎らしい。
 完全なオリジナルというのはとても難しい話なので、どこかで雑草や叩き上げのイメージのモデルがあるような気もします。そのモデルはどこから来るのでしょうか。僕は漠然と、「在日知識人」と呼ばれる人たちを意識している気がします。
 文化資本論はフランス起源でしょうが、日本はどの程度階級社会で、階級移動が自由なのでしょうか。あの、よく分からない一族がよく分からないポジションに居座り続けていて、それに誰もちゃんとつっこみをいれないところを見ると、相当叩き上げ組にはきつそうな社会だなと感じますが。以前、あの一家が通る道端に家族全員で国旗をふりに行ったという友人に、「知性と良識の完全な欠如だね」といって怒らせたことがありますが。話がそれました。スルーして下さい。

Posted by: azuma | February 28, 2005 09:56 AM

「あの一族」は信仰の対象ですからね。知性と良識の問題じゃないんじゃないか。そしてその信仰があるからこそ、日本の万民はいくらか階級化を免れているんじゃないかとか思います。一君万民という構図が強調されるわけでね。
文化資本の有無が階級を形成するかどうかですが、現代の日本でなら、一生懸命勉強すれば、次の代に残せるほどの資本蓄積ができるのではないかなあ。その気力さえ失わされるほど階級移動を阻む壁があるとも思えませんが。
大まかな感想ですが、経済資本蓄積に時間を費やす世代と、その次にその蓄積を利用して知識獲得に時間を費やす世代、二世代あれば日本ならどうなりとのし上がれるんではないですか。のし上がるほうは大変ですけれど、そう思わなければやっておれん気もするね。

Posted by: miyake | February 28, 2005 08:52 PM

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