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思考の限界で書く

ナンシーの『無為の共同体』を随分遅れて読みながら過ごす、日曜日。

「それにひとは限界でしか思考することはないのだ」(pp.46)

そう。いいイメージだと思う。短距離の記録を計るときに、決して6分や8分の力で走らないように。いや、誤解があるかもしれない。限界ギリギリで走るという行為そのものが、「短距離の記録」というものを成立させているというか。厳しいけれど、テレビ観ながらボーっと考えるのは、思考することとは徹底的に異なる。

「書くことを止めてはならない、われわれの〈共同での存在〉の描く特異な線が露呈されるがままにせねばならない」(pp.74)

僕たちが限界でしか思考できないからこそ、書くという行為はその限界性を刻印する。限界の露呈によって、個は他者との絶対的な差異を了解しながら、その了解が他者の存在を前提としなければならないという「無為の共同性」に現れる。本質的でも、意図的でもない共同性。他者との差異を保存しながら、それゆえに立ち現れる共同性。

頭がおかしくなりそうなくらいに思考して、書いて、時々それで何かが回復したり修復されたりする幻想を抱くのはそういうことなのだろうか。

課題:以上の思弁の道のりに、フィールドワーク経験なんて生ものをどう盛り込む?やはり、東京の人類学の研究会に出席した方がよかったかな。

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Comments

こんばんは。最近いろんな個人的事情から目が覚めてきて、話し相手がいなくて退屈です。azuma君と話したいと思うことがしばしばあります。高輪プリンスのときは日本にいなかったので残念でしたが、また近いうちに会いましょう。生命は摩擦のみを感知する存在であろうというのが僕の立場ですが、博士論文は難しい書き物ですよね。期待しています。

Posted by: barcelo | April 11, 2005 01:09 AM

コメントありがとうございます。読んでいただいて、うれしいです。熱海では、せっかくbarceloさんとお話しする機会があったのに、人数が多いのと、それで興奮して酔っ払ってしまったのと・・・。もったいないもったいない。ぜひ、次回。

「生命は摩擦のみを感知する存在」って少しエロティックな感じもします。僕が連想したのは、書く、あるいは(キーボードを)打つこと、つまり身体とその外部との摩擦によって、思考は初めてたち現れてくるということです。そして、それが他者との性交にも自慰行為にもなるという意味で性的なメタファーなのは偶然でしょうか。

せめて、少しでも誰かと触れ合うような博士論文、書けるようにがんばります。

Posted by: azuma | April 11, 2005 03:03 AM

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