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ナイス・マッチ

まともなテレビを手に入れたので、家でよく映画を観るようになった。大学生の頃は、放っておくと何もなければずっと映画ばかり観ていたので、そうなってはいけないと自制しながらも、やはり暇さえあればレンタル屋さんに足を運ぶ。まあ、僕の悪事の中でも一番かわいい方の悪事なので、大目に見てください。

しばらく家ではあまり映画を見ていなかったのだが、最近気がついたのは映画と現代思想がとても食べあわせがいいということ。ドゥルーズの『シネマ』はまだ邦訳されていないようだが是非読んでみたいし、ジジェクはこれでもかっていうくらいにハリウッドのややB級映画を論に用いている。

人類学者なら、抽象的な思想を自分のエスノグラフィーから具体的に示したいところだが、あたらしい考え方と出会うたびにフィールドワークをしていたら大変なので、そんな時映画は手軽な思考実験の道具になる。もう1つ、この世の中の現実的なことを用いるという手もあるけれど、それは概して人の気分を悪くさせる効果があるようなので。

見逃していた「グッバイ、レーニン!」を観た。あらすじはリンク先を見てもらえばわかると思うのだが、要は壁崩壊後の東ドイツでの社会主義イデオロギーの存続をめぐる母と子の物語。

(以下ネタばれを含みます)

息子が壁と社会主義の崩壊を必死で隠すことによって、1人称の語り手である息子によれば、母親は崩壊を知らぬまま死んでいく。けれども、映画を観ている僕たちは、レーニン像が運ばれていくのを母親が目撃したことや、息子の恋人が母親に芝居をばらしてしまったかもしれないということを知っている。そして、そこに、まさにイデオロギーの本質を見ることができる。

ジジェクいわく、イデオロギーの呼びかけに答えることで服従する主体(subject)が立ち現れてくるというアルチュセールはすこし単純で、むしろイデオロギーとは賢いみんながその誤りに気づいていることによって逆に補強されるような巧妙なあり方だという。例えば、裸の王様。王様は裸だということをみんな知っているけれど、それは王様が王様である事実になんら影響を与えてはいない。みんな知っているのに、むしろそれゆえに、王様は社会的には裸ではない服を着た立派な王様だ。あ、どこかの国のあの一族と少し似ている話だね。

だから、僕たちはより色々なことを知って、例えば戦前大日本国帝国が犯した過ちを繰り返さないようにしましょうというのは違っている。あのときだって、帝国主義イデオロギーのはりぼてにきっとみんな気づいていたし、今だって色々なことに僕たちは気づいているのに、現実を構築する巧妙なイデオロギー自体は少しも揺るいでいない。イデオロギー的な現実がある(つまりイデオロギー的ではない現実がある)のではなく、現実とはつねにすでにイデオロギー的なのだ。

で、映画に戻ると、母親は(多分)社会主義の崩壊を知っていて、だからこそそれを信じて死んでいった。息子は、母親のために一生懸命芝居を打つことで、自分はそれが芝居だと分かっていながら、結果として社会主義を再演することになる。社会主義体制自体は実質的に崩壊していてもそのイデオロギーには何の影響もない。何だか、人間は社会を作り国家を作り自由にもなって随分えらくなったようだけれど、結局囚われた悲しい存在でしかないんだね。そんな話になってしまう。

さて、僕が今自分の研究で取り組んでいるのは、そういう容赦のない拘束からどのように僕たちが自由になれるのかということ。別の場所でもう少しちゃんと書きたいのだけれど、今はさわりだけ、自分のアイデアノートとして。『イデオロギーの崇高な対象』のジジェクは。イデオロギー論を扱ったからか、それともラカンの対象aにこだわりすぎたからか、前述した悲しい拘束された人間像を強調しているように見える。でも、『信じるということ』でおもにキリスト教を取り扱った信仰論を展開する時、ロジックは同じでも強調点が微妙にずれているような気がする。

そこでは、人は信仰する対象を自分で選び取るのではなく、イデオロギーと同じく信仰対象というのがそこにあって、その後で信仰する主体が生成してくるとされる。神は、イエスは脱構築できない。正確にはしてもしても脱構築しきれない。だって、もともとそれが前提になって信じる僕たちがあるのだから。じゃあ、そんな空疎なものを信じるのは無駄で悲しいねっていうトーンかというと少し違うような感じがする。どうも、そういう空疎なものを信じようとする僕たちの<もう1つの>主体性みたいなもの、それをジジェクは押しているような押していないような。

ジジェクの揺れなんてあってもなくてもマニアックで瑣末だけれど、そういう見方をすると、『グッバイ、レーニン!』のお母さんにも、体制としての社会主義の崩壊を知りながらもそれを信じようとするひたむきさが、息子にも、母親のために社会主義体制存続の茶番劇を必死で続けるひたむきさが、みえてくるのではないか。イデオロギーというと聞こえは悪いけれど、明らかに現前する「壁崩壊」なんて現実がもし自分や自分の家族のために都合が悪ければ、社会主義を信じ続けることでもしかしたら<そうではなかった>可能性が開かれ残されるのかもしれない。

はは、最後は自分の論に強引に持っていってしまったけれど、そしてそういうややこしい見方は映画をつまらなくするかもしれないって思うけれど、どうも現代思想と映画は食べあわせがいいみたいです。

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