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とりあえずやられた宣言

くやしい。

ある本の読後にそんな風に思ったことはこれまでにあっただろうか。博士論文前に読んだら引っ張られすぎてしまうと予想して、あえて避けてきた本を結局読んでしまった。そして、やはり軽く後悔している。その本の題名は挙げないけれど、友人たちなら予想くらいはつくだろう。

理論とデータとロジック。多分、なかなかいい本や論文を書くためにはこの3点セットがあれば十分だろう。そして、それらを全て兼ね備えたものには何度か出会ってきている。それでも、そこにくやしいとか妬ましいという気持ちが湧き上がってくることはない。なぜだろう。死ぬ気でがんばれば手に入るものだからだろうか。それとも、その3点セットが結局のところ自分にとって最終的に重要なものではないと判断しているからだろうか。怒られるかもしれないが、きっと後者。

くやしかったのは、その本の全てのページに豊かとしか形容しようのない感性を見たから。決して3点セットだけでは描き出すことができない対象を(そしてさらにくやしいことにその対象は僕の対象と少しズレながら少し重なっている)、筆者の心の強さと弱さと大胆さと繊細がしっかりつかまえている。考察するとか分析するとか明らかにするとかではなくて、抱擁するとか愛撫するというのに近い。そんなにギリギリの場所から、どうしてそんなに深く共感できるのだろうか。それとも、それはギリギリだったから?僕は、果たしてフィールドでそんなに心を広げていられたのだろうか。

その差は明白でわりと絶大。そして現在進行形で書いている僕が執筆終了までにその境地に到達することを目指すことは多分無理。論理は時空を超えるかもしれないけれど、感覚はある時ある状況で限定的に生起するものだと思うし。思えば、あの時あの場所にいたのが僕ではない可能性はまったくありえた。つまりフィールド経験自体は代替可能。しかし、あの時あの場所で他ならぬ僕が感じたことは代替不可の絶対的なもの。だとしたら、それに不安を感じてしまった時、いったい僕は何をよりどころにして書けばいいというのだろうか。困ったなー。

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Comments

>論理は時空を超えるかもしれないけれど、感覚はある時ある状況で限定的に生起する

これ、同感ですねえ。だからけんたろう氏の感覚だって、その不安をそのまま書くとか?そういうものじゃ駄目なのかしら。素人で済みません。

Posted by: えむ | August 01, 2005 03:08 AM

コメントありがとうございます。その時感じたことって基本的にはあとで変更できないですよね。もちろん、自分はあの時こう感じたはずだ、って後付けすることはできますが。

でも、多分その本の研ぎ澄まされた完成に脱帽したという部分が強いんだと思います。そして、そういう敗北感はいいことなんだとも思います。

Posted by: azuma | August 03, 2005 11:27 PM

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