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運動と学会

スポーツデー当日。学校をあげて運動会をするという何ともめでたい企画に、練習したり、Tシャツを作ったりして参加する先生と学生が微笑ましい。

バレーボール競技では、東ゼミは1勝1敗で予選敗退。がんばって練習したし、本番も盛り上がったけれど、残念でした。でも楽しかったしみんなと仲良くなれたので、よかったかな。来年こそ決勝のセンターコートに(笑)。

ところで、(すでにいくつかのblogでも言及されていますが)6月3日と4日の第40回日本文化人類学会(東京大学)のプログラムが発表になりました。

http://www.jasca.org/meeting/40th/program.html
http://www.jasca.org/meeting/40th/program2.html

僕の発表は初日午前中のA会場です。「わかることとしての呪術」(代表者:川田牧人)という分科会での発表です。いろいろな意味で一生忘れないだろうあの2年間の共同研究の成果です。よかったらひやかしに来てください。以下は、僕の発表抄録原稿。

「信じる」ことと「恐れる」こと
―呪術的リアリティ/イデオロギーについてのあるエピソード―

東賢太朗(宮崎公立大学)

 「そんなはずはない、だがしかし…」とつぶやき[Favrett=Saada 1980]や、日常的なリアリティと等価のものとして経験される非日常的なリアリティ[カスタネダ 1974]とは、自明なはずの現実とは独立してあるバーチャリティの中に突如立ち現れる呪術的リアリティのあり方を示している。そこから我々は、もはや呪術的な実践や想像力が、(多くの場合「未開」とされた)他者によるものではなく、いつでもどこにでも偶発的に発生しうるコンタクトゾーンのなかにあり、かつその発生は「脱埋め込み」や「再帰性」という極めて現代的な諸条件のなかにあるということを再確認するのである。
 そのような状況下にある呪術的諸実践について、本発表ではフィリピンの一地方都市におけるエピソードから取り扱う。ある場所で発生した妖術師アスワンについての他愛もないうわさは、メディコとよばれる民間治療師とのやり取りを経由しながら次第に真実味を帯び、呪術的な世界とは一見隔たったロケーションにおいて、一見ほど遠い人々を巻き込んでいく。そこでは、信じるのか信じないのかという問いはもはや意味をなさず、ただわけもわからず恐ろしいという漠然とした実感のみが人を支配する。合理的判断をときに棚上げにし、ときに否定してしまう「もしかしたら…」という偶有性がそこに残されているからである。完全に現代的な条件において、合理と非合理、理解と非理解の間を往復しながら、その境界域で発生する呪術的リアリティとは、本分科会における「半理解」、あるいは「反理解」という諒解の様態に接触するだろう。
 以上の呪術的リアリティとは、あるいはなんら特殊な状況を示してはいないのかもしれない。理解をすり抜け身をかわしつつ、それでもそれゆえに機能する呪術的リアリティとは、イデオロギーは虚偽意識ではなく、現実そのものがイデオロギー的であるというジジェクを思い起こさせる[ジジェク 2000]。本発表では、呪術的なリアリティ/イデオロギーについての考察を手がかりとして、知識と行為というやや広大な領域にまで迷い込んでいくことができるだろうか。

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