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今年もまたあの季節が

早いもので、今年も文化人類学会まで1週間をきりました。今年度の第41回研究大会は、6月2日と3日に名古屋大学で開催です。僕にとっての学会は、発表を聞いて学ぶ場としてだけではなく、いやそれ以上に、普段会えない人類学仲間たちと会って話して騒げるお祭り的な楽しみです。

僕は、「人類学的リスク研究の開拓」(代表者:市野澤潤平)という分科会のメンバーとして発表します。1年ほど前から同世代の人類学仲間たちと集まって始めた、共同研究の中間発表です。分科会での発表は昨年に引き続きなのですが、先輩人類学者に囲まれていた昨年とは違い、自分たちで試行錯誤しながら作り上げてきた共同研究への自信と不安が同居しています。さあ、どうなることか。よかったら、冷やかしにきてくださいね。

以下、僕の発表タイトルと要旨です。

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リスクとしての不幸、またはリスクという不幸
―災いについての人類学的な物語の可能性―

東賢太朗(宮崎公立大学)

 リスク社会論者によれば、リスク化とは再帰的近代における後期資本主義社会に特徴的なものだという。ところで、人類学者がこれまで対象としてきた社会に広義/狭義のリスクがなかったわけではない。だが、人類学において、Mary Douglasなど一部の例外を除いては、特に「リスク」をテーマや問題として焦点化してこなかった。では、人類学のフィールドは、後期資本主義社会=リスク社会といかに異なるのだろうか。あるいは、そこにはリスク化とは異なった不幸や災いへの説明や対処方法があるのだろうか。人類学的な他者としての呪術や災因論を参照することで、後期資本主義社会をリスク社会と名づける呼びかけに応答する際のリスクに気づくことができるかもしれない。
 以上の問題意識から、本発表では以下の2つの問いを設定する。リスク社会(論)において「社会がリスク化する」とはどういうことか?不幸や災いについての呪術・災因論的な語り口は、リスク社会(論)とどのようにかかわるだろうか?
 リスク社会(論)への批判には、(a)リスク化が社会システムにおける信頼よりも不安を増大させ他者の排除へと向かわせる、(b)因果関係の複雑化により管理不可能なリスクは宿命論的に受け入れられざるをえない、(c)リスクは科学すら負えない責任を個人に帰するイデオロギーとして機能する、といったものがある。その際に生じているのは、誰にでも起こりうるリスク的な因果関係を、いかに個にとって意味あるものとして引き受けることが可能かというアポリアである。
 それならば、不幸や災いについての呪術的な説明、またその説明体系としての災因論はどうだろう。人類学がこれまで蓄積してきた豊富な事例と知見からは、呪術や災因論が不幸や災いに個別具体的な意味を与え、引き受けることを可能にする物語の役割を果たしていることが示されている。では、そのような物語化には、リスク化のイデオロギーに抗する、あるいはオルタナティヴとなりうる思想のポテンシャルは隠されていないだろうか。本発表では、以上のようないまだ熟さぬ思索を通じて、「人類学的リスク研究の開拓」に向けたささやかな試論を展開する。

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