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アクセスのチャンネル

昨日は、ロハスの町中の写真を撮って回った。これまでも、ロハスでは折に触れて写真を撮ってきたのだが、発表や授業でいざ使おうと思うと中々いい写真が見つからないので、今回はまとめて撮影しようと考えていた。

友達のバイクの後ろに乗って、教会や病院や海やショッピングモールや町並みなど、僕がこの町で過ごしてきた時間をトレースするように、ファインダーの中に「ロハス」を次々と収めた。1つの地点から次の地点へ、点と点が結ばれて線になるルートを振り返ると、それは確かに僕の研究関心に沿って描かれている。この町には10万人以上の人が住んでいて、その人たちが日々様々に織り成す日常の複合体へのアクセスは、僕にとっては医療や宗教、呪術という「研究」のチャンネルを通じてのものでしかない。改めて、民族誌が部分的な真実でしかありえないことを思い知らされた。今悩んでいるのは、この町にまた別のチャンネルでアクセスするべきか、それともここに刻んだルートはそのままに、どこか別の場所に新たにアクセスしていくのかということだ。いずれにしても、チャンネルを増やす必要はあるのだが。夕方家に帰ると、炎天下で走りすぎたのか、日焼けで顔が赤くなっていた。

夜、海辺のレストランに家族や友人を招待した。それは、僕が帰ってくる度の恒例行事となっている。目的地にみんなで向かう途中、自家用のトライシクルがエンジントラブルで動かなくなって、直しに行ったり歩いたり。そんな機能不全のシステムも前提だから、誰もが仕方ないねと笑っている。今夜は10名ほどが集まった夕食の席で、はしゃぐ子供たちと、ビールを飲みすぎてうるさい男たちと、仕方ないわねと顔を見合す女性たちに囲まれて、とても限られたチャンネルであっても確かに僕はアクセスしていると実感したのは、多分飲みすぎたビールと、先進国からやって来た人類学者の欲望の仕業だろう。

久しぶりの大聖堂は、薄いブルーに塗り替えられていた。

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Comments

私も、授業や発表などで使いやすい写真を、というので撮って回ることが増えました。ただ、この行為自体も、人類学的な考察の対象として、ちょっと面白いのかもしれません。

記録を撮る、という行為、そしてそれを直接当事者性のない人のところに持って行って見せて回るという行為は、当たり前のことではありながら、同時に特定の地域の内部の者から見ると自明なものではなくて、むしろちょっと奇妙な感じであったりすると思います。観察者であるところの私たちもまた、客体ではありえないことをよくあらわしているように思います。

私たちが写真を撮ろうとして怪訝な顔をされたり、何故そんなものをわざわざ写真に収めるの?と問われたり。

逆に今読んでいる宮本常一の本などにも、メモ帳を出すと座の雰囲気が変わりそうなので…というような、記録を残す行為を見せないことを選択することで経験できる場もある、ということもしばしば感じるのです。

しばしば、カメラをもって写真を撮ることを意識してしまうと、いろいろと見落としてしまう、ということも感じてきました。逆に、カメラを忘れてしまったときに、かなり観察の集中力が高まることも感じます。

そんなわけで、カバンにしまってあるカメラ、どんなときに取り出してよいのか、時々迷ってしまう私です。

Azumaさんは、そんなことを考えたりもしますか?

Posted by: Sammy | August 24, 2007 11:26 AM

>Sammyさん

複雑な話なので、ゆっくり考えたいと思いますが、少しだけ。

確かに、写真に限らず調査者/被調査者の間に横たわる権力関係を背景にした情報の収奪について、僕たちは敏感でなければなりません。また写真であれば、肖像権やプライバシーの問題も先鋭化してくるでしょう。

ただ、「お前の発表の中で、私の治療風景が紹介されたのか?」と喜ぶ呪医や、「この瞬間こそ撮影して日本で私たちの活動が真実だと伝えよ」というカリスマ運動のリーダー、そして僕が撮影して残していった写真が、日比混血児のフィリピンでの幼き日々の思い出として大切にされていることなど、単に力と暴力と抑圧では語れない再帰的な近代に僕たち調査者自身も投げ込まれているということも事実でしょう。

僕の手元にある一番好きな写真は、調査助手を撮影しようとしている僕を、その調査助手が別のカメラで撮影しようとしているものです。そのとき、誰が誰を、そして何のために撮影するのかという主体/客体関係はまさに崩壊しているかのようで。すこしロマンチックにすぎるでしょうか。

Posted by: azuma | August 25, 2007 04:16 PM

なるほど、そうですね。「撮る」という行為自体がそのまま権力的なものに収斂してしまうわけでもないわけです。たとえ権力的なものがあっても、利用しつつされつつ、そんな中でどういうかかわりになっていくか、なのでしょう…。

うちにも、この間実習に行ったときに、寝ているカウンターパートNGOの仲間をこっそり撮っている別の仲間の様子をこちらが撮っている、その姿を見て笑っている別の仲間も写っていたりして…という写真があって、これまたちょっとしたお気に入りです。

Posted by: Sammy | August 26, 2007 07:01 PM

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