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解放からの解放か?

ボラカイは明日朝まで。今日は部屋でフィールドノートや試料の整理をしていると、すっかり日が落ちてしまった。今回の滞在中はあいにくの曇り続きで、ボラカイの美しい夕日はとうとう見られなかった。

毎晩、戦略的にまったく同じ行動をとっている。21時になると仕事をやめて、BBQを買って生演奏の聞けるバーに行く。そこでビールを飲みながら1時間ほど過ごす。その後、もう1軒、カウンターのあるバーでバーテンと話しながら飲んで、宿に帰る。そのコースを数日続けていたら、BBQのおばさんにも店の店員にも顔を覚えられて、気軽に話ができるようになった。イロンゴが話せる日本人は珍しいのか、向こうも色々話しかけてくる。そんなやりとりの中で、そろそろこの島の調査で気になる点について突っ込んだ質問がしたくなるのだが、ぐっと我慢する。今はまだその時期ではない。まずは関係性の構築から。フィールドワークでは、何かをすることよりも何かをしないことの方が大事な場合が多いのではないかと思う。それでも、一番仲良くなったバーテンが、10月からフロリダのバーに出稼ぎに行くんだとうれしそうに話してくれると、祝福の気持ちと同時に、僕が次に来るときに彼がいないのが調査的に惜しいと思ってしまうのは人類学者の悪い癖だろう。

ところで昨日の1軒目では、ドレッド頭のフィリピン人がBob MarleyのRedemption Songを演奏していた。その曲は以前、友人のラスタ研究者が発表の中で聴かせてくれて以来、僕の中でのBobのNo.1ソングになっている。アコースティックの心地よい演奏がビールと一緒に体の中に流れ込みながら、それでも何か少しの違和感を覚えずにはいられなかった。そう、Redemption Songはアフリカ大陸から奴隷としてつれてこられた黒人たちの解放への願いがこめられた歌。「精神的な隷属から自分自身を解き放て」というストレートなメッセージが響き渡るには、この島はあまりにも後期資本主義とネオ・コロニアリズムに満たされてしまっているような気がする。一体、この場所で誰が誰から、そして何から解き放たれようというのか。奴隷商人によって捕われたクンタ・キンテの叫びは、ここには届かない。

ここでは、全てはツーリズムによる模倣という身振りによって、支配や抑圧に対する抵抗という生真面目な実践は消費の対象になってしまう。またその消費は、もちろん豊かなものと貧しいものの格差を保存したままながら、そのどちら側によっても日々繰り返されている。外国人によって「発見」され、徹底的に資本を投下され続けてきたこのフィリピン隋一の「楽園」で、ビーチリゾートの外国人観光客にむけて演奏されるRedemptionの歌は、むしろ解放からの解放を賛美しているかのように響いている。

そんな解放からの解放を、見る/見られるのまなざしが幾重にも交差するポストモダンな観光という場における主体性の脱構築だと肯定したり、いや実はそれは解放からの解放という物語に隷属しているに過ぎない新たな拘束だと批判することは、論文1本くらいの価値にはなるかもしれない。でも僕としては、もうしばらくこのRedemptionの歌に身をゆだねて、その流れていく先を感じてみたいと思う。それには、まだまだ何もしないで、ただここにいる時間が必要だろう。

時間になったから、今夜もまた同じように出かけよう。明日の船は朝早くに出るから、遅くなりすぎないように気をつけて。

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