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国籍を尋ねること

昨日、マニラに戻ってきた。ビーチリゾートから都市へ、「非日常」から「日常」への移動をはっきりと意識する。それが、僕にとっての「日常」であるかどうかは別として。

マニラでは、友人達と楽しく過ごしている。夕食は、マカティでおいしいイタリアンを食べながら卒論の調査に来ている学部生の話を聞いた。最初は、少しでも役に立つコメントをなどと思ったが、話していると予想以上にしっかり考えられているので、特に何もいうことはない。そして、できる学部生ほど進学しないで就職していく。

その後、ロハス大通りの高級コンドミ39階から下界を眺めながら、政治学の友人2人と朝まで飲み明かす。フィリピンについて、よくこれだけ語ることがあるなというほど語り続ける。なんだか院生時代に戻ったみたいで、うれしかった。

ところでどうも1つ、うまく受け入れられないことがある。それは、この国ではあまりにも気軽に気楽に、他人に国籍を尋ねるということだ。もちろん、確かに僕はこの国では外国人であって、とくに出入国などナショナリティを明らかにしなければいけない状況は多くある。それでも、普通にビーチやジープや食堂や道端で、幾度も“Korean? or Japanese?”などと聞かれると、しまいには“None of f**kin’ your business!!”と答えたくなる。だって、日本人か韓国人かなんてこちらにとってはかなり繊細な問いを、赤の他人に、不必要に、繰り返し投げつけられるのだから(同様な、不躾な問いかけに“Are you Married?”や“What is your religion?”があることも付け加えておく)。

と憤りながらも、そんな“I am/We are Filipino”が疑うことなく所与であるかのように錯覚してしまうナショナリズムがこの国に成立するのも、もとはといえば外からの暴力的な植民地化に起因している。コロニアルとネオ・コロニアルとポスト・コロニアルが錯綜する中で、一体誰が誰に対して鈍い感覚を押し付けているのか、よくわからなくなってくる。

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Comments

ロンドンも雑多なところで、国籍を尋ねるのは日常会話の一部ですね。
今日もなじみのウェイターさんに国籍を聞かれたので、聞き返したら、イギリス人だが、血筋はイランとのこと。
ロンドンにはオリジンは別にあるという答えが実に多い。国柄ですね。

逆にケニアでは細かく学歴を不必要に聞かれたりして、無駄に学歴を重ねている私としては同じく、“None of your business!!”と言いたくなります。実はケニアでは学歴を重ねることはすばらしいことなんですけどね。

問題はアウェイにあるのではなく、ホームだったり、自分の心のなかだったりするんですが、こうも海外経験が豊かになってしまうと、どこまでがアウェイで、どこまでがホームなのか、境界がわからなくなってしまいますね。

Posted by: ジュア | September 04, 2007 02:24 AM

>ジュアさん

イギリス、いかがお過ごしですか?

そうですか、多様なナショナリティに囲まれていても、いやそれだからこそ、国籍は話題に上るのですね。でも、やっぱりある程度は親しい人でしょ?僕のフィリピンのケースでは、まったく知らない、しかもとても横柄な人に聞かれるのが特に腹が立ちます。

学歴は、どうでしょうか。僕の場合、確かに大学院を博士まで終えて学位を取得したことはそれなりに素晴らしいと認識されていますが、それでも結婚もしなければカトリックでもないという半人前扱いが変わるわけではありません。

まとめれば、多分自分のホームでの負い目が、フィールドで浮き彫りになっているということでしょうか。フィールドの人たちは、ホームでの暗黙の了解を明示化するときがあるので。

ケニアからイギリスへ、植民地から宗主国へのマルチサイトなフィールドワーク、成果を楽しみにしています。帰ってきたら、たっぷりお話を聞かせてくださいね。

Posted by: azuma | September 05, 2007 03:46 AM

インドネシアでもその不躾な3つの質問、よく聞かれます。
でも私もそれは「フィリピン人であることが疑いようもない」というナショナリズムとはちょっと違うように思いつつ読んでいました。
たぶん、ミンダナオでもアチェでも南タイでも同じように無邪気に聞かれると思います。ではその無邪気さ/鈍さとは何なんだ、と聞かれると困ってしまうのですが。

Posted by: kenken | September 06, 2007 11:37 PM

>kenkenさん

お元気ですか?

そうですか、聞かれますか、国籍。多分この国に住んでいると、国籍があまりにも所与で、反省的に捉えることがなく、聞かれて驚いてしまうというのがまずあるんでしょうね。

もう1つは、ナショナリズムとカウンター・ナショナリズムは弁証法的にシステムを成立させているのに対し、そのどちらからもの「素朴」なナショナリティについての問いかけにむかつく僕は、システム自体に腹を立てているような気がします。kenkenさんのいう、無邪気さや鈍さは、逆光のナショナリズムとも違うものですか?

今回は、フィリピンだけでなく、タイ、インドネシア(バリ)と回る中で、少しだけ広い視点を得ることができた/できるような気がします。ぜひまた、東南アジア研究についてお話を聞かせてください。

Posted by: azuma | September 07, 2007 04:30 AM

はじめて書き込みさせていただきます。
たまたまこのブログを拝見させていただいたので、
いきなりで少し申し訳ありませんが、どうしても気になったので書かせていただきます。
国外で調査研究をされている方とは思えないような文だったので少しびっくりして書かせていただきました。

自分は第三者としてその国を訪れ、そこの人々や生活、文化を調査している、自分の目的のために。でも訪れられている側が(たとえその人間が自分と何のかかわりを持っていなくても)自分を詮索すると憤りを感じる。
ちょっと「?」な感じですが。。

公式な調査にしても日常の何気ない経験でも現地の人々を観察したり、見聞きしたことは研究のためのかけがえのない資料や経験として蓄積されていることでしょう。でもそれらひっくるめて調査されている現地の人からしたらIt's none of YOUR f**kin' businessなんではないでしょうか?

うざいと感じる気持ちも分らないでもないですが、その時やっぱり自分は外部の人間だと感じるんじゃないですか?
アウェーなんです。自分が思っている以上に目立ってるんだと思うんです。ある意味しょうがないですよね。

日本の田舎街にふと外国の学者さんが調査のために現れたとして、本人はもう日本を旅なれていて普通にしてるつもりでもどう見たって周りからは浮いている。そんな状況なんじゃないでしょうか?しかもその街の人が皆好奇心旺盛で他人に気軽に声をかける土地柄だったとしたら?多分行く先々で質問の嵐でしょうね。そしてそれらの質問に対して「あんたらには関係ないでしょ?ほっといてよ」といいながら旅を続け、そこの人々の生活や文化を調査、研究している学者さん。。。。
?????な感じですよね。。。

多国籍の人々が集まるような場所では、自分の都合うんぬんに関わらず何処から来たのか、どの民族に属するのか、どの文化圏から来たのかはまず相手を知る為のかなり基本的な質問になってしまうと思います。
たしかにそのような考えは個人をあるグループや集団の一員として一くくりにしてしまう安易で危険なものであるとも言えなくはないですが。。

日本国内でも知り合った人が何処に住んでいるとか、何処の出身くらいは結構知り合った初期の段階で聞きませんか?続いてどんなお仕事をされてるんですか?とか何を勉強してるの?みたいな。でもう少し話しが進むと大学は?高校は?みたいな。あと日本人同士ならあまり多くを聞かなくても大体の事は知れてしまいますものね。会話の中から。
これくらいは大したことないと思われるかもしれないですが、それが国を出たら国籍や民族、宗教となるだけだと思います。

宗教を聞かれることを不躾だと感じるとおっしゃってますが。これは国籍や民族とほぼ同等なくらいその人物を知る手がかりになるし、宗教を聞くことで相手に大して失礼な言動や行動を避ける目的もあると考えられます。それだけ日本国内以上に人々の生活や価値観と宗教が結びついている人がいるということです。(もうとっくにそんなことは理解されていると思いますが。。。)
まあヘタをすれば相手は自分が敵か味方を探ってるともとられられますからなんともいえませんが。。。
でも初対面の異国の人に対する純粋な好奇心や警戒心、礼儀の現われでもあるような気がします。

要は全く違う背景を背負ったもの同志が互いを認識する為の最低限の通過儀礼的だと思って、気にせず受け流すあるいは受け入れるしかないのでしょうね。ましてや異国を旅する場合、自分はあくまでアウェー、相手はホームなんですから。

初の書き込みでしかも面識もありませんがいきなりの批判的な文になってしまいました。私のほうで誤解等があったら申し訳ありません。
このような書き込みもありえることを前提でブログをされていると思いますのであえて書かせていただきました。

ご研究頑張ってください。

Posted by: 通りすがり | September 07, 2007 02:25 PM

>通りすがりさん

真摯で建設的なコメント、ありがとうございました。フィールドワーク中ということもあり、様々考えましたが、上手くまとまらない部分があります。しかしできる限り僕も、誠実にリプライさせていただきます。

まず、若干の誤解があるようなので確認しておきます。国籍を突然尋ねられて僕が困惑したのは、本当に通りすがりの面識もない人たちから投げかけられた問いに対してです。これまでに調査に協力してくれた親しい人たちに対しては、調査の目的や進行状況はもちろん、個人的な家庭状況、政治的信条、宗教的な立場、給与の金額に至るまで、求められれば可能な限りオープンにしているつもりです。もちろん、それでも僕と彼/彼女らの間に横たわる政治経済的な不均衡は決して解消されませんが、少なくともあなたのおっしゃるような「自分の知りたい情報は知るが、自分についての情報は秘匿する」という態度ではないと信じます。ホームであろうがアウェイであろうが、長年来の親しい友人と、まったく一面識もない人とをある程度切り分けることは、僕にはそれほど特別なことではないと感じられます。まったく一面識もない人から聞かれた個人的な(しかも後述するように非常にセンシティヴな)情報すら、その「国家」内で調査しているのであれば、その「国民」全員に対して完全に公開しなければならないと主張されているのではないですよね。

ですから、コメントに対しては、大きく「他者に国籍や宗教を尋ねることは、(得に異文化間においては)仕方のないことで、ときに有益ですらある」という主張として回答させていただきたいと思います。

さて、国外の調査研究者である僕の文章が、あなたを「びっくり」させてしまったようですね。それは認めざるを得ないかもしれません。というのは、多分あなたが想定されている大変立派な国外調査研究者と比べ、僕はもちろんまだまだ未熟で、「立派」からは程遠い地点にあると考えるからです。同じく国外について調査研究を進めている若い研究者仲間達と集まると、いつも話題に上るのは、研究者として個人的な感情を完全に排して異文化に対して公平かつ客観的なスタンスを取らなければいけないという使命感と、それでもどうしても感じてしまう異文化についての個人的な悩み、苦しみ、不平などとをどのように折り合いつければいいのかということです。後者の問題を抱えそこから脱出できない僕に比べ、前者のスタンスをストレートに求めることができるあなたはとても強い人なのでしょう。

その強さは、コメントの他の部分からも感じられました。あなたの主張を勝手ながらまとめれば、Aという個人にA’というナショナリティがあり、A’’という宗教を信仰している。そのAさんが、B’という国籍を持ち、B’’という宗教を信じるBさんと対峙した際に、好奇心や警戒心や礼儀、その他もろもろの異文化間接触によって生じる「自然」な態度として、一番わかり易くベーシックな情報である国籍や宗教について尋ねるのは当たり前だ、ということでしょうか。「最低限の通過儀礼」というのはそういう意味だと受け取れます。

実は僕は、そんな強い主張に対して、それはまったく正しく理想的ですらある、と尊敬と賞賛の念を抱かずに入られません。むしろ、そのような主張ができる大変タフでマッチョな主体であるあなたに、嫉妬と羨望の念すら感じます。みんなが、単一の国籍や宗教的アイデンティティを保持して、それを手持ちのカードとして異文化とオープンに明るく交流していくことができたら、それはどんなに幸せなことでしょう。でも、本当にみんながそんなに「強い主体」なのでしょうか?

僕自身について言えば、いわゆる在日3世として、またここ数年カトリックへの改宗に思い悩むものとして、いかなる単一のナショナリティ(僕’)もいかなる単一の宗教的帰属感(僕’’)も抱くことが、今日に至るまでできていません。また国内であっても国外であっても、少なくとも僕の周りにいる人たちの多くは、多かれ少なかれ、国籍や宗教だけでなく、ジェンダーやセクシャリティ、民族や家族、社会的立場、経済的状況など、さまざまなアイデンティティを単一に確立することができず(その多くはマイノリティとして様々に不利益をこうむりながら)、つねに一体自分は誰なのか、何なのかという問いを問い続けています。そのようなあり方は、「強い主体」に対する「弱い主体」、いやもっといえばアイデンティティの識別不能な「主体未満」なのかもしれません。

そんな「主体未満」に対して発せられる、「お前は、何人だ?」「お前は、何教だ?」という「強い主体」からの問いに対して、それは「マジョリティである自分にとっては何ともなく受け流せる問いが、マイノリティである他者にとって非常にセンシティヴな暴力になりうるということに思い至ることができない、ある種の想像力の欠如や感性の鈍さだ」とぼやくのは、やはり弱さゆえのものでしょうか。

しかし翻って、本当に「強い主体」が強いのであれば、なぜに国籍や宗教という非常に大きな(そして漠然とした)何かに拠って、他者との関係性を開始しなければならないのでしょう。その強さは、どこからやってくるのでしょうか?

僕の好きなリサ・ゴウという人が『私という旅』という本の中で、「私は私を構成する全ての要素を書き出して、それらすべてを足した以上の何かだ」という主張をしています。国内であれ国外であれ、他者との接触において、例えば<日本人、男性、40代、仏教、既婚>というようなある限られた主体の構成要素を取り出して、それを機軸とした関係性を構築するのであれば、別に僕は僕である必要はないと感じてしまいます。「強い主体」の「強さ」とは、もしかしたらそのようなどこかで誰かが発したわかりやすい構成要素に自身を寄り添わせることのできる「強さ」なのでは、と疑ってしまいます。

理想主義だといわれるかもしれませんが、僕は全ての個人が、その人の構成要素の総計以上の何かとして、すなわち代替不可能なかけがえのない個人として、他者と関係することが可能になるような世界が実現することを強く夢見ています。しかしながら、現状は反対に、むしろどの構成要素がもっとも獲得可能で利用可能か見極め、できる限り「強い主体」として振舞う(例えば「自分は日本人で仏教徒だが、あなたは何人で何教だ?」と問う)ことが生きていくうえで条件になりつつあると考えます。しかし、そのような問いはしばしば、あの悲惨なナチスから911以降のイスラムへの警戒感の高まり、また日本でも話題になった中国での日本への抗議運動などへと連なっているのも事実です。

長くなりました。ここまで来て、国籍や宗教を尋ねることが「最低限の通過儀礼」だというあなたの主張が、むしろそのような近年の流れを鋭く分析した上で、そこで生きていくための選択肢であるということにやっとたどり着きました。僕が、「主体未満」の立場から、何とか主体を確立させなくとも個人がその人らしく生きる方策を探ることと、あなたが何とかして主体を確立させた上で「強い主体」同士のネゴシエーションとして他者との関係を想像することは、多分コインの裏表のような関係でしょう。でも、表の絵柄は決して裏の絵柄と出会わないのでしょうか。いつか、「主体未満」の立場から、「強い主体」との関係性を結んでみたいと相変わらず夢語りをしてしまいます。

貴重なコメント、ありがとうございました。

Posted by: azuma | September 07, 2007 10:16 PM

>そんな「主体未満」に対して発せられる、「お前は、何人だ?」「お前は、何教だ?」という「強い主体」からの問いに対して、それは「マジョリティである自分にとっては何ともなく受け流せる問いが、マイノリティである他者にとって非常にセンシティヴな暴力になりうるということに思い至ることができない、ある種の想像力の欠如や感性の鈍さだ」とぼやくのは、やはり弱さゆえのものでしょうか。

あなたはご自身がずっとぼやく弱さの側にいらしたとお考えですか。あなた自身大いに「強い主体」として、他者のアイデンティティを、安易に批評し、時にネタにすること、そして後から口を拭うこと、また弱さを打ち出して悩める側になりおおせること、難しくて答えが出ないといいながら弱さと強さを使い分けていたことは、なかったのですか。弱さと強さを使い分け両方を武器にして徒党を組んで人のアイデンティティを攻撃するのに手を貸したことはなかったのですか。

Posted by: 別の通りすがり | September 08, 2007 02:57 AM

早速の、非常に深く考えを巡らせていただけたレスに感心するとともに敬意を表します。
私の素人考えのような突っ込みにここまで答えていただけた事ありがとうございます。
私はazumaさんのように学術的に論理だてて書くだけの技量がないのでできうる限りの表現力でお答えさせていただきます。

まず、他者からあらゆる情報を求めるなら自分も持てる全ての状況を提供すべきと言う解釈。これは少なからず間違っていません。まあ極論はそうですね。ただそこまで言わないまでも要はたとえそれが親しい人物であれ全く知らない他人であれ、他国においてはあくまで自分はお客さんなんだということを忘れたくても忘れてはいけないということなんだろうなということです。あとでショックを受けるのは自分ですから。。。国などという大きなくくりで考えなくてもいいと思います。
仮に日本の国内で非常に大きな家に住んでいる友人の家に遊びに行ったとします。その友達の家は国の重要文化財にも指定されている立派なお家であなたは例えば建築家の卵として非常に興味があり是非拝見したいといって訪ねたとします。友人はあなたの事を良く知っているし何故自宅に来たいかも理解しています。あなたはその友人のご家族の何人かとも面識がありあなたと友人とがどういう関係かも良く知っているとします。
さてあなたはその友人のお宅をたずねあまりのすばらしさに夢中に家の隅々を探索し、写真まで撮ります。友人もご家族の方も事情を知っているので勝手にさせてくれます。でもそこのおじいちゃんはあなたの事を知りません。中学生で反抗期の友人の甥っ子さんも知りません。あなたが家の中をうろうろしているのを見て、でもおじいさんは礼儀正しい方なのでしょう、「はて、どちら様ですか?何をしているのですか?」と聞いてきます。「泥棒!」といきなりほうきで殴りかかれなかっただけ良しとしましょう。そのおじいさんに、「あなたには関係のないことです。放っておいてください。」とはいいませんよね。恐らく「自分はここの家の○さんの友人で何々と申します。建築の勉強をしていてこの度お家を拝見させてもらいに来ました。」程度の事は言うでしょう。
中学せいの甥っ子と廊下で鉢合わせます。「誰だお前は!何をしているんだ?」といきなり乱暴に聞かれます。またまた自分の説明はあなたはします。すると「何処の大学だ?なんで建築なんて勉強してるんだ?」
と聞いてきたとします。受験で悩んでいるんでしょうか?たんなる好奇心かもしれません。でもあなたは失礼があってはいけないから丁寧に答えます。
「もう自分は友人にも他の家族にも了解をもらっているし、別に悪いことをしてるわけではないんだから何故こんなに怪しまれなきゃいけないんだろう?」とは思いませんよね?だっておじいさんにせよ甥っ子さんにしてもあなたの事は単にその家の人ではないということしか分らないんですから。
一旦国の外に出ると要はこれの何百倍も大きな規模でそれを感じなければいけなくなるんではないかなと思うわけです。外国でまったく知らないその国の人と古くから親しんでいるその国の人。自分の中ではそのような位置づけをしていても自分は異邦人であることに代わりはないことを思い知らされる瞬間が、あかの他人に唐突に自分のアイデンティティーを問われる瞬間なんじゃないでしょうか?
でも仕方がないですよね、(家の話しに戻しますが)どんなに友人やご家族と親しくともその家は他人の家なんですから。おじいちゃんや甥っ子さんのような人もいるわけです。で、結局その時どう行動するかですよね?「うるさいな、ほって置いてくれ、自分が何処の誰で何の為にここにいるかなんて何故あなたにいちいち説明しなければいけないのか?」と考えるか、「いやいやこの人に警戒されたりするのも無理はない、自分の正体をきちんと明かすしかないな。」と考えるかです。

で海外でそれらの質問が国籍だったり民族だったり宗教であったりするのだと思います。それらの質問は時に自分の事をさらけ出さなければいけない非常に厳しい瞬間でもあるかもしれませんが、国内のもっとミクロな身近な環境でも小さいレベルで起きているんです。
ようは他人の家にいることを片時も忘れてはいけない、忘れても良いけど気をつけないと嫌な思いや哀しい思いをするよ見たいな事です。

で通過儀礼の話し。
かなり繊細なお題だとは思います。
通過儀礼なんて大仰な言い方をする必要もなかったかもしれませんが私が言わんとすることはほぼご理解いただていると思います。
でマッチョや鈍感と言う言葉が出てきましたがそういう言われ方をされても仕方がないなと苦笑してしまいました。
私のこういう考え方は恐らく鍛えられてこうなったんだと思います。
自分も幼少の頃から海外に長くいましたから、もの心がついたときから自分は外国人でした。思春期も海外でしたからどんなにその国やその国の友人となじんでも自分は外国人、しかも西洋圏でしたので常に異人種であることを痛感させられることがままありました。どんなに自分が認めたくなくてもそこに存在する誤解や偏見は簡単には無くなりません。
自分ではすっかりその国になじんで友人もたくさんいるつもりでもいざ見知らぬ場所に行くと自分はただの一人の東洋人でした。で、自分の事を誰もしらない見知らぬ土地においてはそこでの他者との入り口は「あの東洋人」からはじまり「あの日本人」であったり「あの何某という日本人」であったり「おそらく仏教徒であろう何某」「あの妙に流暢にうちらの言語をはなす日本人」「日系っぽいが実は国籍は日本らしい」そして「日本人なのになかなか面白い奴」「お前は日本人だけどそんなことはどうでもいい、お前は俺達の仲間だ」みたいになって行くわけです。いかに自分らしさをアピールするか、自分そのものを知ってもらうかはかなりの努力が必要でした。
だから日本人、東洋人というのはあくまでもスタートラインでしかないんです。そこから先をどうするかでした。
私の周りにはたくさんの人種、文化圏の友達がいましたがそれぞれに悩みを抱えていました。ハーフの子や二重国籍、親と人種が違う養子。亡命者の子、ユダヤ教、カソリック、プロテスタント、モルモン、ヒンズー、仏教あらゆる宗教の友人がいました。性的な嗜好の異なる友人もいました。そしてみなそれぞれが自分が他の大勢と違うという悩みを持ちながらでも一緒に過ごしていました。そして友人に恵まれていたのかもしれませんがかなり皆オープンに互いの違いについて語り合っていました。

実際ご自分のアイデンティティーに対してかなり色々悩む事があるようですがその敏感な部分に触れられて感じた不快感をぶつける相手は質問をした人なのでしょうか?
質問の内容は他者を認識しようとしているあるいは判断しようとしているその質問者があなたの何を見ようとしているかを表わします。その質問がどれだけ被質問者にとって繊細な質問であるかはまず個人レベルでは単純には分りません。でもその質問のいわゆる的確性、繊細度、危険度、無礼度(こんな言葉無いでしょうけど)には文化圏や国そして個人によってランク付けのようなものがあるような気がするのです。
場所によっては結婚していますか?と聞くのが習慣の地域があるかもしれません。極論を言えばあなたの性的嗜好はなんですか?と一番最初に聞くのが礼儀だと思っている人がいる国もあるかもしれません。
そしてまったく面識の無いもの同士がであったとき、少なくとも一番大きなくくりとして、相手を知る時に発せられる質問が国内ではなく国家や民族、文化圏の違うもの同士であるときコンセンサス的な質問事項として国籍、民族、宗教なのでは無いでしょうかということを言いたかったのです。
別に質問がかならずしも国籍、民族、宗教でなくてもいいんです。かりに見知らぬ他人にあなたは未成年ですか?それとも成人ですか?と聞かれたとしても女性に興味はありますか?と聞かれても同じなんです。気にしない人は全く気にしないし、気にする人は非常に気にして不快になる。繰り返すようですが一番大きなくくりの質問として国籍、民族、宗教の三つは存在するのではない無いでしょうかということです。

もちろんそのようなくくりは最初のレスの時にも少しだけ言いましたが非常に危険な要素も含まれているとは思います。歴史の中での多くの悲劇はほとんど全てこの三つの大きなくくりによって産まれてきたといっても過言では無いでしょう。しかし異文化圏に身を置いて研究をされている時点でこの三つ要素は決して自分から切り離すことのできない、一生背負ってゆかなければならないものなのではないのでしょうか?
これらを否定するか、受け入れるかどうかは自由です。asumaさんご自身の生き方、研究の仕方にも影響してくるでしょう。

弱い主体、強い主体という考え方についてですがそれも今回の件に関してはあえて言わせて頂ければ関係ないと思います。

なぜならそれはあくまでazumaさんのなかで質問の内容から感じ取ったものだからです。一連の一般的(あえて一般的なといわせてもらいますが)な質問の中に敏感にあらゆる要素を感じ取った洞察力や繊細さはさすがに研究者だなと思いますが、不快になる必要は無いと思ってしまいます。別に悪気があって聞いてくる人も「滅多には」いないでしょう。
状況的にあなたの事を知ろうとした他人の質問がそのような形をとっただけだと考えた方がよいのではないでしょうか。

ご自分が日系3世であることを言うのははばかれますか?
カソリックになろうか悩んでいることをあかの他人に打ち明けるのははばかれますか?
はばかれるのであればその理由を冷静に分析してその理由を言ってあげればよいのではないですか?
答えたくなければ答えなくともよいのではないですか?

強い主体、弱い主体、主体未満という考え方は解りやすいですがどれも主体であることには変わりないと思いませんか? ご自身で強い、弱い、未満という基準はどこでつくられているのですか?弱い主体であろう立場の人が強い主体であろう誰かに国籍、民族、宗教を問うという状況もありえませんか?その質問をした時点で質問した側は強い主体になってしまうのでしょうか?

何故アイデンティティーを強い弱いで計るのですか?

自分は個人を識別するあらゆる一般的な要素で表せられる以上の者であると考えるのではなくてそれらのあらゆる要素も含めて自分であるとは考えられませんか?自分の「正体を明かす」ときその一部を見せてあげる、分け与えてあげて自分を知ってもらう手がかりにしてもらうという感覚でよいのではないでしょうか?少なくとも道すがりのあかの他人に自分を全部知ってもらう必要は無いし知ってもらうなんて不可能ですから。あ、でもそれがazumaさんの理想なんですものね。実は自分もあまり国籍や民族、性別、年齢などだけで自分を定義されてはたまったものではないとは強く思っていますが。。

マイノリティーに対する暴力的な発言。
何をもってマイノリティーとするのかも難しいですね。

マイノリティーであることを有無を言わさず自覚させられるような発言をされるとき不快に感じるということでしょうか?

乱暴に高圧的に聞かれるような状況を強調しているようですが、仮にものすごく礼儀正しく、丁寧に聞かれてもやはり暴力的発言になるのでしょうか?

「近代」の通過儀礼という解釈。
規模の差こそあれ今も昔も存在した通過儀礼だと思っていたんですが。。。


理想という観点からはすばらしい思いをお持ちだと思います。
ただ異文化圏において研究をされてる時点で他者がそれぞれの発言に置いている重みや価値観の違いを感情に流されずに冷静に受け止める事は
普段慣れ親しんだ国以上に重要になるように思ってしまいます。

azumaさんのご返事とは比べものにならないくらいまとまりの無いレスになってしまいました。考えを上手くまとめられない自分の未熟さを痛感します。色々考えさせられてまだまだいろいろ書ききれていないこともありますがちょっと時間をかけすぎてしまいました。きちんと整理して書き直したほうがよいかと思いましたが今思っている率直な意見としてご返事させていただきます。

私はほとんど自分の事を明かさずにazumaさんに対して色々書いてしまっていることをお許し下さい。

ながながと書きすぎました。少し眠ります。


Posted by: 通りすがり | September 08, 2007 06:32 AM

自分が投稿した上のコメントは、不適切で事実と相違する誤った認識に基づいていたので、撤回いたします。削除できたらしたいのですがかないませんので申し訳ありません。

Posted by: 別の通りすがり | September 08, 2007 02:10 PM

ロハス大通りの高級コンドミ39階より、考えたことを書かせてください。反論しているのでも返事を求めているのでもないので、返信していただかなくても結構です。

ちょうど私も最近、傲慢にも、アウェイの人々に対して、「自分のアイデンティティーに関わる敏感な質問」をされていると憤ることが非常に多くなっているので、何度も、じっくり読みました。Azumaさん、私が言葉にできなかった/しようとしなかったことを、あふれるほどの言葉にしてくださってありがとうございます。

個人的な質問を受けて憤りを感じるのは、「国外で調査研究をしているくせに」ではなくむしろ、「国外での調査研究が長くなればなるほど」なのじゃないかなぁと思います。馴染みのない土地では、憤るどころかすべての異文化が物珍しくて、適応しなきゃ、この人たちの中に入れてもらわなきゃと遠慮する(ときには媚びる)ところがあって。それは自分のことを旅人だと思っていて、研究者だと思っているから。
でも、長い時間いればいるほど、だんだん、外部者でありながら生活者になっていくのでしょう。24時間「第三者として調査する」という立場で生きているわけではないし、24時間、目をギラギラさせてノートを取っているわけではないし。生活者として買い物に行ってお店の人ともめたり、タクシーの運転手にぼられそうになって怒ったり、調査地の人たちから借金の依頼を受けたり。
腹を立てたっていいじゃないですか。何年もいるのにいつまでも、「この国におじゃまさせてもらっているんだから…」と下手に遠慮して喧嘩もできない、っていうほうが、むしろおかしいように思います。「他国においてはあくまで自分はお客さんなんだということを忘れたくても忘れてはいけない」のはもちろんそうですが、お客さん面をしていつまでもニコニコしているほうが失礼ではないでしょうか。

Azumaさんの分類に従って、まず、「行きずりの見ず知らずの人々ではなく、何度も顔を合わせる調査地の方々との関係」についてですが、日本の田舎街に訪れた外国の学者さんの例で言えば、好奇心旺盛な町の人たちに質問責めにあって「あんたらには関係ないでしょ?ほっといてよ」と言えるはずはないのですが、数ヶ月、そして数年のつきあいになるにつれ、そしてそこの田舎の言葉が板に付くようになるにつれ、
「みなさんは本当に、他人のプライバシーに関わることをよく尋ねてきますよね。日本人ってみんなそうなんですか? この地方は特別にそうなんですかね? …いや、私の国ではそう言う質問は一切しないんで、最初は驚いたんですよ」
というようなそんな話が自然にできるようになり、人々から、
「そういえば、東京に出て行ったうちの息子も、田舎の人はうざったい、ずけずけ質問してうっとうしいってよく怒られるなぁ。こっちは悪気なんてないんだから、怒らんでもいいのにねぇ」
「僕も実は、ムッとしたことありますよ。」
「そうかね、そういやあんた、何回かムッとした顔してたよ。」
「…ばれてましたか!」
…というような、腹を割った話ができて初めて、その学者さんは仕事をしたってことではないでしょうか。
対等になる、という意味ではないのです。学歴や社会階層を度外視しても、そもそも「調査してやる」という目的で訪れている以上、対等になんて絶対になれないのだから。でも、対等になれないからといってずっと相手に遠慮し続けるのは逆に不自然ではないかと思うのです。
私は人類学ではなく政治学ですが、フィールドワークの中で「研究者として個人的な感情を完全に排して異文化に対して公平かつ客観的なスタンスを取らなければいけない」とは決して思いません。相手の政治的主張をうんうんと訊いているだけで何ができましょうか。好きになれないイデオロギーはありますし、聞き捨てならない言葉には反論します。

次に、「行きずりの見ず知らずの人々」の場合ですが、これは、尋ねているほうは単なる好奇心なわけで、相手が強い主体をもっているかどうかは別問題ではないかと思います。私は、我が家の近くの見ず知らずの路上のタバコ売りのおっちゃんたち(歩き売りなのでその都度変わる)から、何度も何度も「Hi! アンニョンハセヨー、オハヨー」と声をかけられ、「コリアン?ジャパニーズ?チャイニーズ?」、「結婚してるのか?」と訊かれますが、あのおっちゃんたちは別に、「おれはフィリピン人で、クリスチャンで、結婚していて、路上のタバコ売りだ! で、お前は何者だ?」って思っているわけではないはずです。
夫に逃げられたという暗い過去を背負っているフィリピン女性が、にもかかわらず、初対面の他人に対して「結婚してるの?」という、私から見れば「ぶしつけな」質問を投げかける状況を何度も見て、私はそのたびに唖然としました。自分が訊かれたくない質問を、どうして他人に投げかけるのか。これは今でもわかりません。問題はマイノリティでもマジョリティでもなく、単純に感じ方の違いなのではないかと思っています。

最後に。冒頭に「最近、憤ることが多くなった」と書きましたが、それは、決して身の回りの人々が急にぶしつけになったわけではなく、自分の心のありかたが変わっただけです。何かを訊かれて不快に感じるのは、相手が誰であろうと、相手が強い主体であろうと弱い主体であろうと、相手がどんな態度であろうと、実は、あんまり関係ないのではないでしょうか。自分にとって敏感な部分に触れられたときに感じる気持ちは、見ず知らずのタバコ売りのおっちゃんでも、長年慣れ親しんだ友人でも、あまり変わらないような気がします。要は、「初対面なのに云々」ではなく、私たちはその「想像力の欠如や感性の鈍さ」に腹を勝手に立てるのです。それは、どんなに丁寧に礼儀正しく訊かれたって同じことでしょう。そして、そんなとき、その不快感の理由を冷静に分析してその理由を相手に説明することはとても苦しいし、「『答えたくない』と答える」ことさえも、非常に苦しいのです。

Posted by: saging | September 10, 2007 11:13 PM

海外渡航中につき、コメントへのリプライが遅れました。ごめんなさい。

>別の通りすがりさん

事実誤認ではないと思います。

おっしゃるとおりのこと全てを、きっと僕もしてきていると思います。主体は、つねに強さと弱さの間を揺れ動く流動的なものですから。いや、そこにはもう主体は存在していないのかもしれませんね。だとしたら、僕が批判したいのは、AやBといった個別の主体ではなく、むしろそのように主体を立ち上げ、その間に強弱の関係性を忍び込ませる「何か」なんだと思います。その「何か」が一体何なのか、それが僕の関心事です。

>通りすがりさん

国籍や民族や宗教を機軸とした他者との関係性について、

(a)いいか悪いかは別として、それがもっとも一般的で、もっとも活用しやすいカテゴリーであると主張し、そしてそのような他者との関係性の結び方に耐えられるという立場
(b)それが多様なかけがえのない個のあり方を大雑把な類型化によって阻害し、またその類型化がナショナリズムやコロニアリズムというイデオロギー装置によって強者と弱者の不均衡な関係性を構築するので避けるべきだ、また自分はそのような関係性に絶えられずに傷ついてしまうという立場

の2つが、あなたと僕の間に差異をもったものとしてあるということ、それ自体はすでに前回のコメントで確認したことだと思います。今回のコメントでも、基本的にその2つの立場は変化していないので、あとは僕とあなたが現実的な事象の中から(あなたの言葉を借りれば)「感じ取った」信念や信条や主張や人生観の違いであると考えますし、僕はあなたの立場をリスペクトしたいと思います。

ただし、以下の数点のみは誤解や事実誤認があるようなので、箇条書き形式で応答しておきます。丁寧なコメント、ありがとうございました。

・家庭(面識のある友人/面識のない祖父や甥)と国家(面識のある友人/面識のない他人)を相似とみなすメタファーを使用できる人を、僕はやはり強いなあと感じます。国家を家庭のように感じることができない人たちは、僕自身も含めて数多くいると思うのですが。あなたのメタファーを流用すれば、遊びに行った友達の家にホームステイしている留学生、友人の大学生の弟が深夜に連れてきて泊まっていった二日酔いの若者達、家の軒下でそっとチャンスをうかがっている泥棒など、現在の国家=家族においては、誰が家族で誰が家族でないのかわからないような複雑な状況が成立していると思います。

・僕は、僕に対して国籍や宗教についての質問をした特定の個人(ましてやあなた)を批判しているわけではありません。オリジナルなエントリーの最後のパラグラフを再確認していただければわかると思いますが、ある特定の国家や宗教に帰属する主体を確立させ、またその主体間に強弱の(可変的な)差異を含んだ関係性を忍び込ませる「何か」(多分、それは植民地主義と大きく関係するがそれだけではない)をターゲットとして、言論活動を進めています。

・何がマジョリティかマイノリティかという大変哲学的な命題を提出されていますが、僕の思考はもう少し単純で、ある程度のセキュリティを確保している人に対し、リスクが高い周縁的な人たちの脆弱な立場をなんとかできないかというものです。

・「ご自身が日系3世であることを言うのははばかられますか?」というご質問に対して、まず僕は前回のコメントで書きましたように、「日系3世」ではありません。またそれが「在日」であるということを意味されているのであれば、その質問に対し「まったく躊躇せずに、どこでも公表します」という在日たちが多いか少ないか、現在からでも過去からでも、ぜひご想像していただければと願います。

>sagingさん

コメントありがとう。やはり、リプライしてしまいます。

滞在や付き合いが長期化すればするほど、むしろ自分の意見や考え方をフィールドの人たちとシェアするべきだし、そうしなければならない状況は増えてくるという点、僕が言葉足らずだった内容を的確に補足してくれました。

僕の尊敬するある人類学者は、フィールドで最初は突然訪れたよそ者だった自分が、次第に共同体に受け入れられ、最後は「先生」とよばれながら各種の相談を受けるにいたる自身の経験プロセスを描いています。僕は根本的にダメな人間なので「先生」にはなれないけれど、最近はそれでも何かしらの役割を与えられ、その付与された役割への期待に基づいて演技する自分がいるな、とは感じています。

後半の主体の強度について、強い主体と弱い主体はつねに可変的で流動的なものです。あるときある状況では弱かった主体が突然強い主体になることも考えられます。例えば、夫に逃げられた過去を持つフィリピン人女性は、多分これまでに多くの強い(鈍い)主体から「旦那さんはどこにいったの?」という問いを投げかけられ傷ついているはずなのに、自分が今度は強い主体にコミットして、あなたに「結婚しているの?」と不躾に尋ねます。弱い主体がつねに別の弱い主体の痛みを想像できるのではなく、むしろ弱さゆえにその痛みから逃避するためには自分が可能な限りで強い主体として振舞うことが要請されているのです。そして、その際に強さを確保するために活用されるのが、国籍や宗教や社会的立場によるシンプルなカテゴリー化ではないでしょうか。無数の属性の中からどれか1つを選べば、多分誰だって誰かに対してはマジョリティの立場を確保できるから。

だから僕は、「想像力の欠如や感性の鈍さ」から不幸は始まると思いますが、その欠如や鈍さはやはり「主体よ、強くあれ!」というネオリベ的なよびかけへの応答に起因するのであって、特定の個人よりもむしろ、その「強い主体」として立ち上がることへの渇望を生み出すメカニズムを標的とする必要があると考えました。


Posted by: azuma | September 14, 2007 08:59 PM

>主体は、つねに強さと弱さの間を揺れ動く流動的なものですから。いや、そこにはもう主体は存在していないのかもしれませんね。だとしたら、僕が批判したいのは、AやBといった個別の主体ではなく、

そういう一般化の物言いで、どれだけ傲慢なレトリシャンが確信犯的に詭弁を展開し、指摘されれば自分や誰か個別の問題ではないということで自分を免罪していることか!
調査研究と称して他者のアイデンティティに茶々を入れる大義名分を得て、しかもその茶々を入れる行為そのものを相対化することでどれだけ「人類学者」たちは独善的になり、自らの悪に鈍感になっていることか!

あなたがたほど無神経でなく、地道に調査対象と信頼関係を構築して生産的な営みに努めようとしているフィールドワーカーもたくさんいると思いますし、あなたがたの開き直りと同一視されたくない人も少なからずいるでしょう。

自分は生涯、独善と鈍感と傲慢について違和感を保持していようと思います。学者の仮面をかぶった社会悪を少しでも避けるために、かつてあなたがたが何枚も自分に貼り付けたレッテルも全て利用できるものは利用して、あなたも知っている「フィールドワーカー」たちの「連携」の醜悪さを、その被害者である自分は意識の続く限り、覚えていようと思います。

Posted by: 別の通りすがり | September 16, 2007 05:53 PM

あらためて、私のような素人考えに丁寧にご返答頂きありがとうございます。

今回のご返事でazumaさんの研究内容の核心に触れられたと思いました。よくわかりました。ありがとうございます。


「日系3世」の件、私の軽率な間違いです。ご容赦下さい。

>またそれが「在日」であるということを意味されているのであれば、その質問に対し「まったく躊躇せずに、どこでも公表します」という在日たちが多いか少ないか、現在からでも過去からでも、ぜひご想像していただければと願います。

たしかにそうですね。少なくとも日本国内においてはあまり多いとはいえないでしょうね。

近代の西洋学的な教育システムの最高位(ある意味最強?)を獲得し(それを何処の国で獲得したかはとにかく)、身につけて活動されているにも関わらず(azumaさんのいう>現状は反対に、むしろどの構成要素がもっとも獲得可能で利用可能か)いやむしろ身につけなければazumaさんの捜し求めているものを見つけ出すことができないような今のこの世界において、ご自身がお持ちのような繊細な主張を持ち続けるかということはazumaさんにとってどれだけ大切で大変なことなんだろうとひしひしと感じました。
選択の余地がないご自身の民族としてのアイデンティティーにおける悩みや問題、そして捜し求めいるものが、ご自身で勝ちとった人類学博士というアイデンティティーによって行う調査研究という行動と真っ向から対立しているような(のように思える)状況なのでしょう。私のようなものには大変難解で強い意志と精神力をお持ちで無いととても達成できないように思える活動の中で(そういう意味ではazumaさんは非常に強い方だと思いますよ。)azumaさんが探している「何か」が見つけられることを心よりお祈りいたします。
ありがとうございました。

Posted by: | September 17, 2007 03:17 AM

>別の通りすがりさん

かなりヒートアップしてますね。

まず、「あなたがた」=「人類学者」という集団に僕を含めて仮想敵としているようですが、他のすべての学問領域と同じく、各人類学者にはそれぞれ異なった立場と主張があると思います。また、僕のような駆け出しの未熟者と一緒にされるのはゴメンだ、という人もたくさんいるでしょう(笑)。あくまで僕の主張として、ご理解ください。

次に、各主体に単一のアイデンティティを想定しないことが、なぜ「一般化」に通じるのか、分かりかねます。むしろ、流動的で識別不能なアイデンティティは、「あなたは強くあれ」、「主体として自己責任を引き受けよ」というジェネラルな呼びかけに抗することができる「個別」なありかただと思います。

例えば、例えば大学ではジェンダーについて学びながら、親戚の集まりで「女の子は台所を手伝いなさい」といわれ従う女子学生の身のこなしについて、頭でっかちな論者が「あなたは抑圧された女性という確固たる主体として、その親戚に異議申し立てしなければならない」などと押し付けるのはいかがなものでしょうか。それは、彼女が大学で学ぶ西欧近代的な自立した女性というアイデンティティを有しながらも、親族集団の一員であるというアイデンティティを(良し悪しは別として)日和見的に選択しなければならないという状況を生み出している複雑なメカニズムに目をつぶることに通じます。その場合、「あなたは…べきだ」という主体の押し付けはむしろ、自己責任という「一般論」に陥っているのではないでしょうか。

ただし、あなたの保持する(と主張する)「独善と鈍感と傲慢についての違和感」には僕も強く共感します。立場と主張は異なりながら、そのあなたの強い主体としてのアクトが、いつか弱い主体でしかありえない僕の進む道とクロスすればいいな、と思います。

>通りすがりさん

丁寧なコメントありがとうございます。フィールドとホームを往復しながらできるだけ思考を自由に解放しようと努めていますが、やはり職業柄頭でっかちになりがちです。

今回のあなたがあえて送ってくれたストレートなコメントは、そんな硬直化しがち思考を揺さぶってくれました。あなたは「素人」だとおっしゃいますが、本当に物事に真剣にコミットしていこうとする人は、みんな「素人」だと思いますし、またそうでなければならないとも思います。僕ももっともっと、ストレートに伝わるメッセージを発信していきたいと思います。

素晴らしい交話でした。いつか、どこかでお会いできたらいいですね。

Posted by: azuma | September 17, 2007 02:32 PM

寡聞のせいかも知れませんが、自分の知っている人類学者はみな「弱い主体でしかありえない僕」とかいう韜晦を使い開き直る方々が多いようで、他の学問分野はともかく、人類学者に限っては、立場と主張にさしたる多様性があるとは思いません。

誰に呼びかけられるからでもなく、どんな主体も自分が引き受けなくてはならない責任は引き受けるべきですし、そのためにはそれを果たしうる程度には強くあるべきでしょう。その意味で「自己責任」と呼ばれるものは、まさにトートロジーですが責任を持って果たすべきものでしょう。その範囲が具体的にどの程度のものかは意見が分かれるかもしれませんが、だからといってなにも果たす責任がない主体などありえないでしょう。それは誰かに「ジェネラルに」呼びかけられるからではなく、各自が自分から果たそうとするべきものでしょう。

自分がその女子学生なら、断固その親族の促しを拒否しますし、そのために親族集団から阻害されてもその道を選びます。だからといって、誰か他人の女子学生に自分がなにも選択を強制するものではありません。なにを押し付ける気もありません。

しかし、自ら自分が関わる対象を選択できるフィールドワーカーは、それとは立場が違うではないですか!自分が好んで関わる他者に対して、なにを押し付けるも押し付けられるもないでしょう。あなたは誰かに強制されてフィリピンを調査せざるを得なくなったのですか?あなたがあなたの好奇心や探究心を持って選んだフィールドでしょう?そこで何の日和見を選択せざるを得ない「状況」がありますか?それさえもある程度事前にわかっていて予期できたはずで、それならあなたが責任を持つべきものでしょう。生まれたときから選べない対象である親族集団とは話が違うでしょう。

学者としてのフィールドワーカーは、そもそもその道を好んで選んだ時点で「素人」よりも背負うべき責任が多くなるものでしょうし、その意味で「素人」ではいけないのではないですか?わざわざ恣意的に多くの選択肢から「フィールドワーカー」の道を選んだ人が、確信犯的にカマトトぶって「弱い主体」もなにもないでしょう。

しかし「弱い主体」を演じるレトリックが、そしてそのことによって相手を「強い主体」としていなすことで、自分より強者に対しては弱者を気取り自分より弱者に対しては平然と強さで対応するテクニックとして、母国とフィールドを行き来するプロセスで二面性として発達し、しかもそのことを詩的表現で記述していくことで当たり前のように麻痺していく、そういう行動様式をお持ちの部族の皆様は、結局一番「強い主体」なのではないですか?

しつこく食い下がって失礼しています。どうかご無理にご返答をなさいませんように。

Posted by: 別の通りすがり | September 17, 2007 04:50 PM

つけくわえます。自分は誰も「仮想敵」とするつもりもありません。敵味方、勝ち負けにこだわってコメントするつもりは毛頭ありません。ただ、論理的に筋が通らないように思われるところを問いたいだけです。それで誰を敵としようとも害しようとも思いません。ただただ、筋が通らないことに対して違和感があります。その違和感が自分の思考の軸としてずっと保持すべきものと思っています。

Posted by: 別の通りすがり | September 18, 2007 05:51 PM

>別の通りすがりさん

大変、確固とした信念と世界観がおありのようですね。世界との関わり方に、つねに不安を抱きながら小動物のようにおびえている僕にはあなたがとても眩しく見えます。勝手ながらご意見をまとめさせていただきますと、

「人類学者」は…、
・大体皆似たような考え方の欺瞞的で醜悪な集団である
・自ら選択した「フィールド」に責任を持たなければならない

「研究者」は…、
・「素人」よりも、多くの責任を背負うべきである

「主体」は…、
・確固たるものとして(「弱い主体」や「主体未満」としてではなく)確立している
・それぞれの自己責任を引き受け、果たすべきである

そして、これらあなたの主張と論理が異なった、あるいは反する主張は「筋が通らない」ので違和感を感じる、ということですね。それはそれで、他者認識の1つのあり方なのでしょうか。

「人類学者」について、1点目の同質性と醜悪さがそうなのかどうか、あなた自身の主観的経験をもとにした主張ならば、「そうだ」、「いや、違う」という不毛な水掛け論にしかならないコメントは避けたいと思います。ただ、このエントリーの中で散々繰り返したように、「人類学者」とはある個人にとって無限の属性の内のたった1つにしかすぎないということは付け加えておきます。2点目については、「フィールド」に対して責任をもつという意味では賛成なのですが、その「フィールド」が(例えば僕にとっての「フィリピン共和国」や「ロハス市」のように)国家や行政に区分される地政学的ロケーションであるのかどうかについての懐疑は、すでにコメントの中で繰り返し議論されています。また僕は、自分がリアルに関係した人たちに対しては果たしうる限りの責任を果たすべきだと考えるし、またそのように最大限努力しているということもすでに述べています。

「研究者」と「主体」に関して、あなたのご意見はよくわかりました。そしてそれが少なくとも僕の意見と異なるものであるということも十分に明らかです。僕は頭でっかちな専門家的タコツボにこもるよりも素人として様々な問題にコミットしていきたいと願い、主体よりもエージェンシー的なあり方に希望を見出し、自己責任を引き受けよというネオリベ的よびかけからの回避の方策を模索しているのですから。またそのような僕の主張の基礎付けとなっている、サイードの「知識人よ、アマチュアたれ」というアジや、主体の信憑しうる「大きな物語」がすでに失墜して久しいというリオタール、「私」が「在る」という西欧哲学的伝統を「差延」概念によって脱構築してしまったデリダなど、あなたと異なる意見をもつ人たちは僕のような学問世界の最周縁部に位置する研究者以外にもたくさんいますし、そのことはよくご存知でしょう。ここよりも、むしろそれ相応の場所とやり方で、それらの思想について言論活動を継続されてはいかがでしょうか。僕は所詮ユーザーにしかすぎませんが、あなたの論はメーカーと真っ正面から取り組むものです。

要は、すでに明白すぎるあなたと僕の立場や考え方の違い、そしてその差異に対するリスペクト以上には、この場にふさわしいものは見出せないのです。

Posted by: | September 19, 2007 05:54 PM

なるたけ失礼にならないように申し上げますが、ある人の無数の属性のひとつである「人類学者」という属性自体が、やはりある種の欺瞞を孕み易い思想傾向につながりやすいのではないのでしょうか。そして結果としてその属性でくくった人たちにはある共通性が見いだせる可能性は大いにあり得ましょう。

文化人類学会会員は約二千名と聞いたことがあります。これは文系の他の学問分野と比較すると、やはり少数精鋭の方だと思います。しかもAzumaさんはその内部にいらしてそこからいろんな方をご覧になっている。自分は外部から他のいろんな分野の人(研究者に限らず)と併せて文化人類学者の方々を拝見させていて、やはりなにかしらの思考の傾向を感じますし、実は自分はかねてからそこになんというか、欺瞞と言ってよいような「『フィールドワークする自分』に都合のよい視点の高さ」を感じます。さらにそれを醜悪だというのは主観ですから御無礼を申し上げているとは思うのですが。このあたり、ちゃんと説明できていないのもまた誠に申し訳ない限りです。実は「人類学者って○○な人が多いんですよ。」と人類学者から自分はかつてよく聞かされたものでしたので、人類学者の方々ご自身もなにか「人類学者」集団になにかしらの共通性をお感じなのではないかと思っていますが。

また、「フィールド」について。自分はロケーションの次元だけで「フィールド」とそれ以外が分けられるものではないのではないかと考えています。もちろん結果としてそれがある地理的範囲を指すこともありましょうが、むしろ「自分の研究の便宜のために自分から仕掛けて設定した人間関係でしかも経済力や政治力、戦略性の上で対等でなく、フィールドワーカーの方が優位に立っているもの」とでも言うべきかも知れません。自分はどんなフィールドワーカーも、なんらかの対象を「フィールド」として設定してそれに働きかける時点で、対象を操作しようとする点で傲慢の罪に手を汚していると思うのですね。そのためにフィールドワーカーの方がどれだけ大きな犠牲を払っているにしても、でも調査対象がフィールドワーカー並みの周到な戦略性を急に発揮して逆フィールドワークを仕掛けてくるようなことがない限りは、元のフィールドワーカーの側は権力を振りかざして日常に闖入してくる強者ではないでしょうか。これはAzumaさんの試みを非難しているのではありません。Azumaさんの御人格にはかねてから自分は敬意を抱いているつもりです。Azumaさんが非常にフィールドで配慮をなされているのはこのブログを拝読していてよく感じますが、しかしAzumaさんに限らず、フィールドワーカーの配慮や責任というのは、どれだけ誠実で親切であれ、それは動物園の飼育係が自分の担当する動物に対する誠実や親切のようなもののように思えてなりません。そこでとれる「責任」は、結局は自分の都合の許す限りの責任でしかないのではないでしょうか。

「頭でっかちな専門家的タコツボにこもる」ことと「素人」たることは二項対立的なものですか?専門知を培いつつも素人的になお学びを重ねる営みは、不可能とお考えですか?(自分は、「頭でっかちな専門家的タコツボにこもりなおかつ素人」という困った存在であるとも思うのでご指摘は有り難く受け止めたいと思いますが。)
また、サイードやリオタールやデリダの所説については、もちろんAzumaさんの学識に比すべきものを自分は皆目持ちませんが、そういうビッグネームを引き合いに出すまでもなく、ここで自分がお伺いしているのはもっとシンプルな疑問でしかないつもりです。それに既にサイードたちが答えているのだからそちらをよく参照しろ、とおっしゃるなら不勉強をお詫びいたします。
「ユーザー」と「メーカー」、なんとなくおっしゃりたい意味が通じるような、でもそれは単に誤解であるような、両方の印象を持ちます。なにかの御出典があるなら御教示頂けませんでしょうか。単に字面から予測する語義からしますと、自分がユーザーよりもメーカーに取り組んでいるとおっしゃったのはなにか褒めて下さっているような気もしますが、かねてから自分はむしろ「ユーザーだっていつだってメーカーに成り変われるんじゃないのかな、そのためにはどうすればいいのかな」というようなことを考えているつもりです。そこではユーザーとメーカーを分けることに意味はありましょうか。敢えてそれらを分け、誰かをユーザーと比定することは、一種の「ユーザーぶりっ子ごっこ」なのではないかと、Azumaさんのおっしゃる語義もわからないくせに勝手に推量してしまっておりますが。

Posted by: 別の通りすがり | September 19, 2007 07:39 PM

前のコメントから一年経ちましたが、自分は相変わらず人類学者が宿命的に持つ独善性と傲慢さに対して、警戒的であろうというきもちに代わりはありません。特に、偽名のメールで人格攻撃を加えてきた汚いその手段とそれを幇助した人、ぐるになっていた人に対しては相変わらず怒りを感じています。つまりその人たちがやりたかったのは、自分という人格をもてあそび、愚弄するもので、この関係は所詮対等な人間観など無い環境でしか成り立ち得ないものでした。人をある漫画を読んでいないからと言ってガリ勉呼ばわりしたり、人の家庭環境を嘲って「自分がもしそんな環境ならとてもやっていられない」などと言ったり、良家のご子息である方とは所詮違う世界の人間で蔑まれて当然ではあると思いますが、でも自分はそれに対して批判的であろうと思います。一年経ちましたが、これから五年十年二十年三十年、自分は自分が持つ批判意識を大切に、人類学という分野の傲慢の社会的悪、その及ぼす被害に対してせめて対抗的でいようと思います。あなた方がどれだけ美辞麗句を並べても、所詮は他者を踏みにじって「業績」なるものを作り上げる製造業者であるならば、それも自分の研究対象であろうとも言えましょうから。

Posted by: 別の通りすがり | September 12, 2008 12:55 AM

>別の通りすがりさん

率直なご批判ありがとうございます。

可能な限り引き受けつつ、今後も研究を続けていく中で応答していきたいと思います。ありがとうございました。

Posted by: azuma | September 15, 2008 07:53 PM

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