「再生」なんてあるんだろうか
「クワイエットルームにようこそ」を観た。よく行くタイ料理のマスターのお勧めで。
久しぶりの内田有紀とか、ヤンキーメイクの蒼井優とか、役者の見所はさておき、やはりポイントは閉鎖精神病棟とメンヘラーの患者たちが織りなすドラマだろう。この社会のきつさの先に零れ落ちていく場所は失業とか貧困とか孤独とか色々あるだろうけれど、心をすりきらせて疲弊しきってしまうことは多分かなりハードなきつさの帰結じゃないだろうか。
思ったこと。締め切りに追われるライターの主人公が、アルコールと睡眠薬で最後に背中を押されるのは身につまされた。僕も締め切りから完全に逃げきれるんだったら、どんな酒でもどんな薬でも飲んでしまうだろう。でも、書ききれなかった文字たちが最後の最後まで亡霊のように付きまとう、その怨霊の恐ろしさが逃避を唯一食い止めている。
あと、この映画のモチーフが「絶望と再生」なんだけれど、あの病棟の中で繰り広げられる濃厚なドラマと関係性を見せられた後では、むしろからっと晴れた外の世界が絶望的に残酷に思えたのは僕が(子宮への回帰願望を募らせるように)弱いのだろうか。あんなに剥き出しの看護師や患者たちがぶつかりあう姿は、このオブラートに包まれた「外」ではめったに見ることができない。内と外、排除と包摂、管理と自由という使い古された二分法自体に限界を感じてしまう。以下、長い自分語りになるので、付き合える人だけ付き合ってください。
僕がパニック発作を発症したのは、いまから4年ほど前だった。運よく学振PD(文部科学省から3年の期間、給料と研究費をもらって研究できるポジション)に採択されて、次はパーマネントの職を得ようと業績を増やすために必死になって論文を書いたり本を読んでいたあの冬。不調は突然やってきた。寒い朝起きたら、世界がすごくうつろで儚く現実感ないものに思えて、その直後、まるで周囲の酸素が一気に濃度を減少させてしまったかのように息苦しくて、だから一生懸命息を吸うと過呼吸になって胸が苦しくて、世界の全てが恐ろしく、これからの全てが不安で、それから数日間部屋にこもってほとんどの時間をベッドで過ごした。
ネットで調べてみれば典型的なパニック発作で、PD(ポストドクター)がPD(パニックディスオーダー)になったなんて、笑おうにも笑えない状況の中、僕にはあの先の未来が見えなかった。友達、恋人、非常勤、来るべき全ての関係性の崩壊。どんな他者と、どんな世界と関わろうと、僕はきっとそれにもうまっすぐ向かい合うことはできないだろう。あとは、ひたすら恐れて引きこもって、不安から鬱になって、それで終わり。
きっと僕には不安定な状況に耐えられる、現代に生きる強さやしなやかさや知恵のようなものが不足しているんだろう。何かが必要だ。すがるように心療内科に行った僕は、医師の「まだ軽度です」という言葉にやっぱりすがって、処方された安定剤をお守りのように大事にカバンに入れて、家に帰った。そして、不思議なことに、それから4年間、重い発作には襲われていない。なんて単純なやつ。笑っちゃう話なんだけれど、実はその安定剤は実際には一度も飲んだことがない。あるのを確認するだけ。心療内科にも精神科にもそれ以降、一度も行っていない。
それから今日まで、毎回授業が始まる前、飛行機が離陸する前、初めてのデートに行く前、つまり適度な緊張をコントロールしなければいけない状況では、つねに軽度の不安と、時々軽い発作の前兆のようなものがある。その度に、いつもカバンに入れている安定剤の存在を確認して、できるだけ酸素を過剰に摂取しないようにして、頭の中で流れる川に少量の汚物が混入したけれど流れていくイメージを思い描いて、打ち消す。大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だって。
心の不調を感じている人たちは周りにも結構多くて、それが僕たちの仕事に特に顕著なのか、それともこの社会全体のきつさが表された症候なのか、よく分からない。ただ、特にこの問題に関しては、弱いから強くならなきゃとか、失敗したからやり直さなきゃとか、心が風邪をひいただけだから治さなきゃとか、喪失と復活のメタファーで語ることがいいのか、できるのか、すべきなのか、僕にはわからない。実は、重さ軽さの度合いは別にして、何とかギリギリで切り抜けている人たちって思った以上に多いんじゃないのか、僕みたいに。
何も間違っていなかったし、あるいはもしかして間違っていたとしても決定的な変化とか曲がり角とか到達点とか、そんな分かりやすいスポ根的な解決なんてこの計算され尽くされた社会にはもう見当たらなくって、あるのはただ軽くかひどく病んでいる人たちと、それを何とかやり過ごすことができる人と、やり過ごすことができない人。それも程度の差で、結局は生きづらさとかどうやって降りるかとか脱出するかとか、そういう話になってしまう。だから、もう一度カバンの中に安定剤があるのを確認して、今夜はもう寝ようか。


Comments
Azumaさんのブログにたくさん触発されている者として、今回もうーんと考え込んでしまいました。いわば「再生」を看板に掲げていると言ってもいいようなキリスト教の世界にいる私も含めて、この複雑に私たちのこころもからだも柔らかくからめ取っていくような時代の中で、少なくとも「安易な「再生」なんてあるわけない」と改めてため息とともに思わされました。私もここしばらくは、心に不調らしいものを抱え続ける中で、また不調を抱える人たちとのかかわりがあった中で、そう思わされてきました。
でも、先に何かあるだろうと思うから、今日に向かい、明日に向かっていくのですよね。そういう意味で、「求道」せざるを得ないのは、「人間」たるものの宿命なのでしょうか…それこそ、人類学的な課題かもしれません…
Posted by: Sammy | October 28, 2008 at 08:40 AM
>Sammyさん
某SNSの方も読ませていただきました。
「再生」も「復活」もなく、「求道」あるのみ。Sammyさんのように立ち向かうのが苦手な僕は、多分「継続」なのかなと思います。
いずれにしても、時代や社会の残酷さにみんなが気づいてしまったならば、さあどうするのか。他者(フィリピン)や超越(宗教的なもの)から脱出を試みるという意味でも、Sammyさんにはいつも共感しつつ刺激を受けています。
Posted by: azuma | October 28, 2008 at 12:13 PM
「頭の中で流れる川に少量の汚物が混入したけれど流れていくイメージ」、さっそく脳内で試しています。そんなスクリーンセーバーがあったらいいのにな。
Azumaさんのおっしゃりたいことを理解できたかどうか定かではありませんが、そして何も新しいことは言えませんが、Asumaさんの文章がとても心に響いたので、コメントをのこさせてください。
エ○ァンゲリオンのラストみたいに「ジャーン、おめでとう!」なんていう「完全な再生」も、「完全な回復」も、現実にはほんとにアリエナイ(自己啓発セミナーみたいな歪んだ形での再生や回復ならあるのかもしれないけれど)。だから、私たちは、不安と普通の間を揺れ動きながら、なんとなく不安をやり過ごした気になって、こうやって絶望的に続いていく毎日をだらだら生きていくんでしょう。そんな中にあって、Azumaさんのように、そのことを色鮮やかで繊細な言葉で説明できるってことは、とても貴重だと思います。少なくとも、私はAzumaさんの文章にいつもとても勇気づけられています。私も、PD発症後の自分が、以前よりも少しは他人の心に敏感になって、言葉を増やして、そして、もっと優しい語彙を使える人間になっていればいいなぁと、ほんの少しだけ、そう思うことにしています。逆境をバネにとか、プラス思考に転換とか、調子に乗ってそんなおざなりな言葉を使うとまたそれにころっと流されて負けてしまうから、「ほんの少し」だけ。
そうすれば、たとえ再生も回復も克服もできなくても、不安やPDを飼い慣らしながらまただらだら生きていけるような気がします。だらだら、とか、継続、って、案外、悪くないんでしょうから。
いろいろ書いてごめんなさい。Azumaさんの文章に私はとっても感謝しているのですよ。
Posted by: saging | October 28, 2008 at 07:51 PM
「内なる他者」たる鬱々さんとの共存共生を模索中。
研究? 就職? そんなもんは棚上げに決まってるやんけ┐(´-`)┌
Posted by: ノリタケ | October 28, 2008 at 08:04 PM
>sagingさん
コメントありがとうございます。
本当に。完全な再生なんてあるはずはないけれど、求めてしまう。そんな継続の中で、僕自身は他者と世界に対して少しだけ優しくなれたような気がしています。だから、PD発症もつらいけれど、悪いことばかりではなかったと…。お互い、立ち止まらないように、続けていきましょう。
>ノリタケさん
PD発症後、やや鬱状態になったとき、すごくきつさを感じました。本格的に発症したとしたら、想像を絶する状況なのでしょうか。
研究も仕事もとても大変だけれど、生きていくこと自体がそれ以上にきついんだなと感じます。
あまり何もわかりませんし、いえませんが、より幸福でありますように。
Posted by: azuma | October 31, 2008 at 04:33 PM