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思想の違いと人間的な共感

今、たまたま読んでいる『テロルの決算』は、ある社会主義の政治家がある右翼の少年に刺殺されたという事件を詳細に追ったノンフィクションだ。多くの場合、思想の違いは人間同士の対立を呼び起こし、憎悪、葛藤、衝突、そして暴力として発露する。911やイラク戦争を経由した僕たちは、その恐ろしさと手のつけられなさをよく知っているだろう。

ところで、途上国の開発援助に対して、僕が「まず行動する」のではなく「まず思考する」というスタンスを主張していることは、繰り返し強調してきた。『イラク』や『人権と国家』でジジェクが説くように、「数百人の子供たちが死んでいる」とか「数十人の女性たちがレイプされている」といった、「今まさに」という呼びかけは、現状の問題を明示しているだけではなく、僕たちに「行動」という脊髄反応を要請してもいる。だがしかし、その呼びかけに応えることによって、「思考」を停止することを余儀なくされた「行動」は、現状を大きく変革することなく、むしろ現状のシステムを再生産することに加担してしまう。必要とされているのは、「行動」への欲求を断ち切って「思考」すること。その立場から、世界の不幸と不平等と不公正に対して立ち向かいたいというのが、ねじれているけれど僕のポジションだ。

だから多くの場合、開発援助に関わる人たちと僕の思想は真っ向から衝突する。コインの裏と表が決して出会わないように、その2つの思想間に妥協は無いだろう。決して訪れない調停に向けて、無限の衝突を継続するだけ。

ただし、それはけっして絶望の宣言だとは思わない。相反する思想のぶつかり合いは、決定的な断絶を迎えないのであれば、むしろ弁証法的な討議/闘技のアリーナを生み出すだろう。わかりあえなくても、違うことを確認できるのなら、その差異は相互の自省を自発的にうながすだろう。真に忌み避けるべきは、思想の違いが生み出す憎悪や暴力ではないだろうか。そして、決定的な断絶へと至るか至らないか、それは僕は最終的には人間的な共感ではないかと考えている。

前置きが長くなったが、今回イロイロではローカルNGO、LOOBのお世話になってきた。たまたま前回の調査で主催者の幸恵さんと出会い、ギマラス島までワークキャンプを視察に行ってきた。主催の幸恵さんとJohnさんが日比カップルということもあり、ワークキャンプも日本人がフィリピンを助けるという一方的な構図ではなく、日本人とフィリピン人の相互の交流と成長を志向したすばらしいものだった。僕の知る数少ないNGOキャンプの中では、自信を持ってお勧めしたい活動だ。

でもだからといって、上記の僕の思想的立場が変わるわけではない。むしろ、「初めてワークキャンプに参加して、180度考え方変わっちゃいました!」という研究者をだれが信用するだろうか。僕の未熟な思想は、それでも僕の短い人生の中ではかなり長い時間の思考や討論、読書、そしてフィールドワークを通じて形成されたものだから。なので、お世話になった今回の2泊3日の間、彼らの活動に対して違和感や疑問を覚えることは少なくなかった。また活動家として、かなり柔軟な姿勢を持っている幸恵さんも、僕と同じく長い時間をかけて育んできた自分の思想を譲ることは無く、結果として僕たちはひたすら対立する意見の衝突を繰り返していた。

それでも断絶は訪れなかった。むしろ彼女は対話と討論を望み、それだけでなく積極的に自分達の活動を僕に紹介してくれた。困難な地区の子供たちのためにクリスマスパーティーを開催し、歌やゲームやプレゼントで素敵な時間を贈ること。ゴミ集積場に行って、そこで日々継続するスカベンジャーやスクワッターの状況を見つめ、わずかでもその状況の改善のために今、できることを行うこと。いずれも僕が「行動」とよぶ実践であり、それに対して僕が「思考」を求めていることは十分に承知しながら、それでも「賢太朗さんに見て欲しいんだよね」と僕を見つめる彼女のまなざしと対峙したとき、僕は思想的立場の対立を超えて、彼女を人としてリスペクトすることができた。その人間的な共感を機軸として、僕は遠慮なく彼女に僕が違うと思うことを主張することができた。それがたとえどれほど「今まさに」「行動」が必要だと要請するものであっても。

「行動」する人たちがいて、「思考」する人たちがいる。ある問題に対して、様々異なった立場から取り組む人が複数必要だ、というシンプルな主張に帰結するのかもしれない。ただ、その「当たり前」に到達するために、人間的な共感や他者への理解という基礎となるものが決定的に重要だということを、僕たちは忘れてしまいがちだ。思想は生きていくために、世界に立ち向かうために、絶対的に不可欠だけれども、それでも僕たちは思想だけでは生きていけない。思想の違いの先に衝突や対立が待ち受けていようと、それを超えた人と人の関わりが継続されてさえいれば、世界はそれほど絶望的ではないのではないか。そんなことをずっと考えていた滞在だった。

LOOBのみなさん、貴重な時間をありがとうございました。また、お会いしましょう。今後も活動、がんばってください。

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歌とゲームとプレゼントとおやつ!幸せそうな子供たち

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ゴミ集積所では、食用の動物がたくさん育てられていた

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Comments

「団体でなく私個人がフィリピンにかかわること」というのは目からウロコでした。その意味をこれから探していきたいと思っています。これからも永遠のバトルを続けましょう。先日のことを文章化してくれ素敵なクリスマスプレゼントをもらった気分です。ありがとう。よいお年を!

Posted by: ゆきえ | December 26, 2008 03:10 AM

非常に考えさせられました。特に僕は研究、開発、どうもどっちつかずで来てしまったので。

一方で「変革の業」のはずが何かを維持する働きに転嫁しやすいのは確かです。では、それ故に思考や議論にとどまるところから何が生み出されているか、真にあるべき変革への道筋が本当に探られているのか、それとも心と脳を揺さぶるだけの暇つぶしになっているのか。何か重大なことをしている気分を、狭い学会関係者の間で共有して満ち足りているだけではないのか。それらの業は、結局この国の血税で支えられているのに見合うものになっていなかったりはしないのか。そんなことがどうしても頭をよぎってしまうのです。

Azumaさんのおっしゃることもわかるような気もするのです。既存の善悪観から生み出されている対立と共存の構図を、根底から問い直していく、それが人文・社会科学系の研究者の使命のようなものなのかな、と思うのも確かです。

ただ、今の自分の場合は、ごく少数の人の脳みそと口とのどがオーバーヒートするにとどまってしまうなら、何のための議論なのか、というような感覚のほうが、より生々しく感じるのです。特に技術系の人を前にしたり、あるいは開発の現場で葛藤する人たちと直面した時には、です。

まあ、私が単に自信のない弱気なだらしない研究者というだけかもしれません。Azumaさんに問うとか、誰彼にどうこうというより、私自身の問題として葛藤しなくてはいけないのでしょう…

Posted by: Sammy | December 26, 2008 03:26 PM

上記のとおり書き込んでから、何となく違和感が残ったので、Azumaさんの文章と自分の書き込みを改めて読み返してみて…

…本筋とずれてしまったようですみません。たぶん、私が上に書いたのも、Azumaさんやゆきえさんと同様、私が長年の歩みの中で築いてきた思想だ、ということになるのでしょう。

違いがあっても人として共感しあい、尊敬しあえる。むしろ簡単に歩み寄りなんてできないなかでもそうできる、というところに人と人とのかかわりが継続されるということに共感しました。Azumaさんのことを大変尊敬しておりますし、ゆきえさんにはおそらくお会いしていないと思いますが、Guimaras関係のの御活動について以前よりうかがっていること、そしてAzumaさんの文章から、本当に尊敬の念を覚えました。

…と申し上げたその上でなお…Azumaさんとゆきえさん、そしてLOOBの方々がともにいる喜びを経験できたのが、やはり「実践」の「現場」であった、ということは、たまたまだとは思えないのです。この点は、やはり重いように思えますが…。

長々と失礼しました。すてきな年末年始をお送りください!

Posted by: Sammy | December 26, 2008 03:47 PM

>ゆきえさん

コメントありがとうございます。色々勝手なことを言ったり書いてしまいましたが、まだまだ続けますよ。

みなさんによろしく。よいお年を。

>Sammyさん

たしかに、学会や論文の議論は現状では自閉していると思います。でも、それを無条件に開けばいいのか、全ての分野の研究者が現場に向かい、そこで声高に主張すればいいのかというと、それも違いますよね。

僕の場合は、今回たまたまフィールドワーク中ということもあり「実践」の現場で対峙したのですが、必ずしもそうである必要は無いと思います。

地理的・状況的に限定された「場」ではなく、多様で異なった立場の専門家や当事者が討議/闘技可能な適切な「言論空間」のようなものが必要かと思います。

そして繰り返しになりますが、それ以前に、途上国の他者であれ分野違いの他者であれ、困難な対話と理解へと向かう人間的なモードを洗練させていくような「他者理解の倫理」のようなものが共有される必要があるのではないでしょうか。

自分でもまったくできていないのに、粗い話ばかりですいません。今年も大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします。よいお年を。

Posted by: azuma | December 27, 2008 12:39 PM

いえいえ、こちらこそ、Azumaさんの日記の中で長々と失礼しました。粗くても、大事な話はAzumaさんのように書いていただけると、私のようなものもはたと自分を振り返る機会になります。ありがたいです。

Posted by: Sammy | December 31, 2008 08:31 AM

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