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NGOと「旅する二類型」について

イロイロでは3日間、現地NGOのLOOBにお世話になった。

ワークキャンプの最終日、「帰国するためマニラに飛ぶ日本人キャンパーたちを空港で見送る」というすごいクライマックス・シーンから途中参加した僕は、夏から開始するフィリピンでのフィールドワークに向けて慣れるためにワークキャンプに参加していたバスケ部新キャプテンが、とりあえず元気でワークキャンプを終えたことを知って安心した。LOOBではみんな僕のことを名前で呼ぶので、空港で再会した彼が「先生!」と駆け寄ってきたのが何か不思議で微妙な感じだった。日本で心配している人たち、彼はちゃんと生きてますよ(笑)。

その3日間は、ちょうど長期ワークキャンプと英語研修という2つの活動の狭間の時間だった。活動と活動の間は、きっとNGOソルジャーたちにとっての戦闘と戦闘の間、つかの間の休息期間なのだろう。その大切な時間にお邪魔して、少しリラックスした表情の彼/女たちと時間を過ごすことができた。現場でまさに活動中の彼/女たちの半分神がかった横顔から学ぶことは多いけれども、カラオケですごく熱唱した後のように少し照れ気味の表情からは、この不透明なセカイである決定を選択しながらサヴァイブしていく困難と喜びを感じることができた。僕も含め決定を延期し続ける人たちとは、また違った生き方のテイスト。お世話になりました。

そんな時間の中で、新キャプテンと同じくLOOBにボランティアや研修にやってきた日本の大学生たちと話しながら、いつも半分冗談気味に主張している「旅する二類型」が結構真実味を帯びてきたので、書いてみる。それは旅する人たちについての小さな覚書になるだろう。

僕は職業柄、「どうしてあなたはフィリピンに行くことを決意したんですか」とか「行くにあたって不安や障害はなかったんですか」とか聞かれることが多い。そして、そういう問いに対してときに正直にときに啓蒙的に答えようと苦労した時期があるのだけれど、それら回答がどうも自分の中でしっくりこなくて、最近は、「人には二種類ある。それは旅立つ人と旅立たない人だ」という戦略的に乱暴な「旅する二類型」で答えることにしている。

フィリピンでもヴァヌアツでもコートデュボアールでも、どこかに旅立つ人にとってその旅は必要であると同時に必然でもある。旅立つ人はどうしようもなく旅立ってしまう。全ての困難や障害を乗り越えて、あるいは置き去りにして。そこに、それほど大きな理由はない。そもそも大きな理由を前もって想定できてしまうくらいなら、無理に旅立たなくてもその場で自分ができることなんてよくわかっているはず。そして、それと同じくらい旅立たない人は旅立たない。その人たちにとって必ず、その場で旅立たないで行うべきこと、あるい何か理由や障害や不安が現れて、当然のように必然的に旅立たない。その2つの振る舞い間に価値の違いはない。グローバルな移動というシステムにおける「旅立つ」ことと「旅立たない」ことの等価性を想像してみよう。まったく等価な2つの類型の間で、僕はたまたま「旅立つ」側にいたということ。その結果、多くのものを得たし、それと同じくらい多くのものを失った。きっと、旅立たない人も同じように何かを得て何かを失うのだろう。

NGO活動にやってきた大学生と話していると、フィールドワーク中の大学(院)生と話しているのと同じくらい、ああ、この人たちはどうしようもなく「旅立つ」側の人間なんだと強く感じる。パスポートがあるかないか、語学が得意かどうかどうか、親が反対するかどうか、資金があるかないか、就職に影響があるかないか、そういった誰にも発生しうる不安や障害は当然のように抱えながら、そしてそれなりに真剣でハードな理由や動機を抱えながらも、最終的には「やっぱり来ちゃいました」っていう脱力感を内側に抱えている。そんな同類型の人たちと共有する居心地の良さを感じながら、僕の学生たちの中にも、もう少しこちら側の人たちがいるとやりやすいんだけどと思ったりした。

そして、多分二類型を比較したら少数派の「旅立つ」側の若者にとって、息苦しいだけにしか感じられないだろう日本のシステムから期限付きであっても脱出するために、人類学やNGOというチャンネルへのアクセスが確保されていることはとても重要だとも感じた。「学ぶ」のか「助ける」のか(あるいは「協働」するのか)という崇高な旅先での目的についての議論は継続しながらも、旅立つ人が旅立つことができるようにフィールドワークや活動の場を確保し続けること。まったく正反対の神様を信仰しながら、僕がNGOとの協働を志向している理由はその辺りにあるのではないかと事後的に整理してみる。

そして、最後に確認しておきたいのは、僕たちが旅立つのはもちろん無数の大いなる理想や目標のためであるのだけれども、前もって想定不能なフィールドや完全には識別不能な他者と向かい合う上で、自分の理性や合理性で全てをクリアした上で旅立つことは不可能だということ。クリアしたならそのゲームはカバンに入れて持っていく必要はない。読みかけの小説をポケットに突っ込むみたいに、最終的には「旅立つ」という理不尽な衝動に身を任せてみることが必要なのではないか。旅立つ人なら、この論理的ではない論理を理解してもらえるのではないかと思う。「旅立ち」の思想的ポテンシャルに向けての構想ノート。

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彼は元気でした。

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Comments

確かに島の奴らは、旅立ったり旅立たなかったりしてたよなぁ。

「旅」とか「移動」とかの流行語に私が感じていた違和感って、こういうことだったのかもしれない。

Posted by: ノリタケ | March 11, 2009 02:18 PM

>ノリタケさん

「越境」とかもですね。

主体的なモビリティを称揚するポストモダンより、ときどき無機質な社会システム理論のことばの方が、現場のノリをよく表現することもあると思います。

Posted by: azuma | March 13, 2009 02:23 PM

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