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ガチのケンカ

最近、ロハスで一番人気のナイトスポットは、町で唯一のショッピングモールの道路を挟んで向かい側にある。その名も、"Area One"。友達と飲み歩いて3軒目の深夜0時ごろ、このエリアの一軒のバーに落ち着いた。

バーの向かいにはライブバーがある。激しい生バンドの演奏が突然止んで、中にいた客が外に流れ出してきた。"Away!"(「ケンカだ!」)と誰かが後ろで叫ぶ。よく見ると、白いシャツを血まみれにした若者が1人、その若者に殴られる若者がもう1人。殴られた若者が殴り返す。殴られた若者がまた殴り返す。2人ともかなり酔っ払っているのか、足元はおぼつかない。観衆は、野次と失笑を投げかけながら、特に止める様子もない。

そのうち、パトカーに乗った警察が到着し、ケンカの当事者を取り押さえ、関係者とともに車に乗せて去っていった。ライブバーではすぐにバンド演奏が再開し、酔っ払ったおじさんが千鳥足ダンスを始めて、僕たちの関心はそちらの滑稽さへと移っていった。

フィリピンにいると、ときどき男たちによる真剣な殴り合いの現場に出くわすことがある。理由は様々だろうが、そして多くの場合酒が大量に混入しているのだろうが、暴力に至るある一定のラインを超えて感情が発露したぶつかり合いを周りの人々はあまり止めることなく、眺めていることが多い。もちろん野次馬根性もあるのだろうが、そのような形でしか解決できない葛藤はそのような形で解決するしかないんだと達観しているような気もする。そういえば、日本で殴り合いのケンカって僕はほとんど見たことがない。それはいいことだろうか。もちろん暴力は許されないのだけれど。

翌朝、滞在先のお母さんから、「昨日、Area Oneでケンカがあったんだって?ラジオで言ってたよ」と尋ねられた。当事者は2人とも21歳の若者だったそうだ。僕と友人は「ああ、そういえばケンカあったね」と何事もなかったように答え、お母さんは「遅くまで飲み歩いて。気をつけなさいよ」とだけ言って洗濯物をしまいに、その場を立ち去った。

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Comments

ジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」を読んでいたら、パプア・ニューギニアの社会を研究していたダイヤモンドが、酋長制の社会から氏族制の社会への移行を経験していないパプア・ニューギニアでは、個人間の利害の衝突、感情の軋轢を共同体の規範や法制度で解決する習慣がないために、殺人や傷害での死亡率がかなり高く、そうした社会で生き延びてきたパプア・ニューギニアの人々は、個人でそうしたトラブルを避けるために非常に「聡く」なっている、それはもう何千年も遺伝子的に選別されてそうなっているようだ、という観察をしていました。
フィリピンとパプア・ニューギニアは違うとは思いますが、社会の人工化の度合いと物理的暴力への抑圧というのは相関しているのではないでしょうか。大陸中国では喧嘩は口でやるもので、手を上げたらその時点で負けと見なされるそうですが、そうした感覚に慣れた人が日本に来ると、まだ日本のほうが時に夫婦喧嘩でも手を上げたりすることが非常に野蛮に見えるそうです。
それがいいか悪いかはともかく、civilizingというのはそういうことなんでしょうか。逆に言い換えると、大陸に現れる帝国というのは古代からある、そういうcivilizingで人々を馴致するシステムとして発達して、周辺の島国にはまだ十分に及んでいない文化だったりするのかなとも思います。

Posted by: エム | March 12, 2009 03:04 PM

>エムさん

コメントありがとうございます。

僕も民族誌を読んでいて、トラブル回避や葛藤の調停には地域的・文化的な差異がよく表れると思います。

Posted by: azuma | March 13, 2009 02:40 PM

民族誌を読めば読むほど、「問題は解決ないし調停されるべき」という前提の怪しさに気付かざるを得ない。

ちなみに私がいた島では、トラブルになるのは大抵がしょーもない問題で、重要な問題には誰も触れようとしません。寝た子は起こすな、法治ならぬ放置です(笑)

Posted by: ノリタケ | March 14, 2009 04:12 PM

>ノリタケさん

僕のいるところでも、問題が発生しても、それが表面化しなかったり、してもなんら調停や制裁が行われない状況は多く見られます。

その場合、最終的に暴力が発露するか、呪術的な解決が試みられる、あるいはそのまま放置という流れです。

問題を発見して解決するというのは、ネオリベ社会の典型的な思考ではないでしょうか。

Posted by: azuma | March 14, 2009 07:53 PM

>問題を発見して解決するというのは、ネオリベ社会の典型的な思考ではないでしょうか。

ネオリベというよりは、マルクス主義も含む進化主義的社会理論に端を発しているような気がします。

丸山真男や川島武宣ら戦後の進歩的知識人の主張も、1960年代の開発発展論も、近代化の妨げになる問題を発見して解決するという方向性でしたし。

Posted by: ノリタケ | March 14, 2009 10:41 PM

以前も似たようなことを申し上げたことがあったかも知れませんが、azumaさんが「ネオリベ」という言葉を使われるときに、それがどういう典拠に基づいたどのような用法、意味を意図されたものか、自分にはよくわからないことがあります。それと関係があるかどうかはわかりませんが、近年よく経済政策批判の文脈でやはり「ネオリベ的」というような言葉が使われますが、自分はそれについてはっきりした定義のもとでの用法を見た覚えがなく、なんとなく印象的に批判するような例が多いと思います。ある社会の特性を批判するために使うには、意味がこなれていない言葉ではないでしょうか。

azumaさんのいらっしゃるところでも、個人間の感情的軋轢が「問題とみなされていない」わけではないと思います。(ここで自分は問題を「理想と現実のギャップ」として定義しています)ただそれを、まさにその個人間で物理的暴力の対抗によって勝ち負けを決めるべき問題とみなすか、社会的に明示されたルールによってなんらかの権威が調停するべき問題とみなすか、あるいは呪的・宗教的権威が心理的に宥める手法で解決すべき問題とみなすか、問題解決アプローチの性質の見極めが、それぞれの文化によって違うのだろうと思います。

ちなみに上のコメントで例に出したジャレド・ダイヤモンドは、著書ではどうも個人間の争いを社会的に調停する制度があるほうが「社会が発達している」とみなしている節がどうもあるような気がしますが、そしてそれをcivilizedという言葉が意味する対象とみなすのはなるほどとも思いますが、私自身は、社会がそうなった方がいいかどうかは、どうもそうとは限らない、よくわからない気もします。確かにあるコミュニティを構成するメンバーが多数であり、価値観も複雑で、入れ替わりが激しかったりしたらそういう解決手法が模索されざるをえないかもとも思うのですが、それがよいかどうかは、まさに老子のいう「小国寡民」というコンセプトや、「大道廃れて仁義あり」という観察があり得るのかも知れないとも思います。

Posted by: エム | March 14, 2009 11:17 PM

横レス失礼します。

>エムさん

はじめまして。

ネオリベって言葉、確かに意味がよくわかんないですよね。私の勝手なネオリベイメージは、

リバタリアニズムとキリスト教原理主義の不思議な融合
が生み出した「自由以外を信仰する自由はない」という
なんだかわけのわからない主張

というものなのですが、実際どうなんでしょう。

私とazumaさんが話していたのは、問題は必ずしも解決されなくてもよいのではないか、ということです。

ずるずると先送りされるような問題はしばしば、解決や調停に持ち込むと決定的な社会的亀裂を生んでしまうことが予想されるものだったりします。そのような問題は、解決や調停をしないことが最善だったりする。まぁそんなことを確認し合っていたわけです。

ともあれ、azumaさんは今日本におられないので、ご質問への返答は帰国されてからということでお願いできませんか。実は私、彼とは(元?)同業者でして、彼は今出張先の社会に埋没していることが予想されますので(笑)

Posted by: ノリタケ | March 15, 2009 01:12 AM

>ノリタケさん
初めまして。よろしくお願いいたします。

azumaさんに返答を求めるつもりは、必ずしもないのです。立派な研究者でいらっしゃるので、おそらくはわたくしの感じるような疑問は織り込んでなおいろいろお考えなのだと思いますし。そしてもちろん、azumaさんに無視されてもしようがないと思っています。ですからこのコメントはノリタケさん宛と言うことでよろしくお願いいたします。

ネオリベについては、英語のneo liberalismともまた違う、カタカナ四文字の「ネオリベ」という和製英語になっていて、それはもう意味がなにがなにやらわからないほど混乱していると思います。あまりに安易に使われているような気がします。

また、これはazumaさんが、ということではないですが、わたくしがお話を伺ったことがある人類学者の方々のいくぶんかは、いわゆる「近代社会」に対して批判的・懐疑的なスタンスの方が多いような気がするのですが、それなのにその方たちが「近代的」なるものを批判されるときのロジックが、なにか情緒的なレトリックに流れている傾向があるような気がして、これまた非常にもったいないなと思うことがあります。

それとこれは「問題解決」の定義の問題ですが、「理想と現実の間にギャップがある」=「問題が存在している」という状態が解消されるのが「問題解決」であるのならば、敢えて能動的に問題(例えば個人間の感情的軋轢)に他者が介入しようとせず、時間の経過とともにうやむやになるのを待つ、というのもひとつの「問題解決」のスタンスと言えるでしょう。これはドラッカーが、「欧米の組織はすぐに問題を解消しようとするが、そこで時間をかけて問題に自分たちが適応することも選択肢のひとつにしている日本の企業はすごい」みたいなことをどこかで書いていましたが、つまり「待つ」とか「放置する」というのも、問題解決の手法であって、問題を解決しようとしない、それを問題と思わないわけでは必ずしもない。先送りも問題解決の手法のひとつである。

問題解決手法としてなにか特別な類型があるとすれば、例えばそもそも二度と同種・類似の問題が起きないようにするために社会構造そのものにメスを入れるようなやり方があるかも知れません。あるいは社会に起きる問題が例えば高齢化や工業化のような、歴史的におそらく一度しか起きない大イベントであってそれに社会構造の変化が追いついていないという問題は、先送りはできないものの時間をかけてゆっくり対処するしかないかも知れません。それと対照的に、個人間の感情的軋轢のようなものは、古今東西、どんな社会でもなくなることはないでしょう。その種の問題(反復的に発生するであろう問題)と、いろいろ問題の種別を分けて分析してみると、一緒くたに「問題」「その解決」という呼び方をするのはあまり適切ではないかも知れません。その意味でazumaさんの「問題を発見して解決するというのは、ネオリベ社会の典型的な思考ではないでしょうか。」という言い方は、ちょっと不用意な限定的表現かなとも思いますが。

Posted by: エム | March 15, 2009 02:26 PM

よろしくお願いします。

アメリカのneo liberalismやneo conservatismの背景にはおそらく、リバタリアニズムが深く関わっているのでしょう。でも和製英語の「ネオリベ」とか「ネオコン」って、相手を都合よく批判するためのレッテルに堕している感がありますね。

そもそも人類学自体が近代批判の学として誕生ましたから、今の研究者も近代に批判的(必ずしも否定的ではない)なのはまぁ当然といえるかもしれません。

情緒的になりがちなのは、フィールドワークという(間)主観的で経験的の調査方法や、モデル化に慎重な姿勢と関係すると思います。私自身はできるだけ情緒的にならないように努めてきたつもりですが、これは自分の(間)主観的経験を自己批判的に分析するのと同じなわけで、とてもしんどい作業です。

「先送りも問題解決の手法のひとつである」という見方は、目から鱗が落ちる思いです。しかし、「時は金なり」の近代社会では、先送りという問題解決法を良しとしないのもまた事実です。そんなわけで、私たちが調査している社会では、問題解決法をめぐる問題という、なんともややこしい事態が生じています。

私たちが調査に入る社会は、「開発」「近代化」の名のもとに、社会構造そのものにメスを入れられた経験を持つことが多いです。開発や近代化の中で、現地の社会構造は開発や近代化を妨げる「問題」とされ、それを早く取り除くことが「解決」とされてきました。しかし社会構造なんてそう簡単に取り除けるはずもなく、むしろさらなる「問題」を生んでしまう結果となっています。先に挙げた「問題解決法をめぐる問題」も、その一つです。

社会的問題と個人的・感情的問題の区別(でよろしいですよね)ですが、この区別もなかなか難しいのではないかというのが、私の率直な感想です。というのも、「鳥の目」からは社会的問題として一括できるような事柄も、「虫の目」からは極めて多様な個人的感情の問題として現れることが少なくないからです。

ちなみにこの点、私がずっと悩み続けている「問題」なんです(苦笑)

Posted by: ノリタケ | March 17, 2009 01:58 PM

>エムさん
>ノリタケさん

僕が不在(?)のあいだに、大変濃密かつ充実した議論を進めてくださってありがとうございます。

「ネオリベ」の使用法に関しては、出店も含め、今後より厳密に使用していく必要がありますね。

また問題の先送りが解決の一手法かどうかという点について、よく考えさせていただきます。

拙いリプライですが、コメントありがとうございました。

Posted by: azuma | March 22, 2009 01:22 PM

>ノリタケさん
「問題」の定義の問題と、なにを理想とするかという問題が入り交じっているのだと思います。僕の用法でいえば、問題とはあくまで「理想と現実のギャップ」に過ぎないので、先送りだろうが放置だろうが、時間はかかってもやがてギャップが解消するのであれば、その手法は問題解決対応のひとつの類型です。ただそうした場合に、例えば「個人間の感情的軋轢、そこから引き起こされる暴力沙汰という事態に対しては放置が最適の対応である」という共通認識がその社会にあって、みんながそう行動しているならば、まるでその社会はそれを問題としていないように見えるかも知れません。しかし、その社会の構成員が「そういう事態が起きても放ってはおくけれども、でもできれば個人間の感情的軋轢ひいては暴力沙汰はそもそも起きない方が望ましいんだけどなあ」と思っていれば、やはりそれはその社会がそれを問題とみなしているとは言えましょう。ただ、それに対して積極的に他者や公権力が介入するのを適切な対応と考えてはいないだけではないでしょうか。まさか暴力沙汰が起きるのが望ましいこととは思っていないと思うのですね。
それと、「理想」の問題が絡みます。社会の変革(括弧付きの「近代化」や「開発」を含む)が理想なのか、現状維持、保守が理想なのか。これは必ずしも「先進国」が変革志向で「途上国」が保守志向とは言えないと思います。また、変革志向であってもあまりにも問題が巨大なので、ゆっくりと対応するしかないという意味で先送りが結局は最適な解決法ということもあろうかと思います。まずそうした整理をした上で思うのですが、何百年かそれくらいの単位で社会構造が安定していた社会では、起きる問題もパターン化していて、またそれへの対応策・解決手段も社会的慣習として至極自然に定着していて、あたかも伝統の風物詩であるかのように執り行われていて、しかも社会保守志向であるので循環的な風景に見えて、それでその行為が問題解決の試みであるとさえわかりにくくなっていたりはしないでしょうか。この辺りは見当で言っていますが。長期的に安定していた社会では、そもそも社会的な問題が起きなくなっていて、個人的な問題しか起きなくなっていた、そこに外部から開発の波が押し寄せてきた、ということならそれによる変化だけがことさら問題に見えるということもあろうかと思います。

>azumaさん
お騒がせしてすみません。それと、お誕生日おめでとうございます。また良い一年でありますように。

Posted by: エム | March 22, 2009 07:51 PM

エムさん

>それに対して積極的に他者や公権力が介入するのを適切な
>対応と考えてはいない

ところがしばしば、白黒はっきりつけたがる公権力が介入してくるんですよ。すると住民は、ほとぼりが冷めるまで放置するような問題を、公権力によって早急に解決するよう迫られるという二重の問題を抱え込んでしまうんです。

「理想」については、また後日お返事いたします。

Posted by: ノリタケ | March 24, 2009 02:18 PM

お待たせしました。

>エムさん

社会変革と理想についてですが、私は、未だ実現したことのない未来像を理想とするのを「革新」、かつて実現していたであろう過去像を理想とするのを「保守」、という感じでイメージしています。

で、革新はあまりバリエーションがない(一言で言ってしまえば近代化の徹底)。これに対して保守は、過去のどの時代を理想とするかで、地域ごとに豊富なバリエーションが存在しうる。

まずはアメリカ。アメリカの保守と革新(リベラル?)は、おそらく自由志向と平等志向、小さな政府志向と大きな政府志向といった対立軸で区別されるように思います。しかしどっちの陣営も、近代化志向であり未来志向という意味では「革新」なんですよね。逆に言うとアメリカには、理想化できるような過去などないわけです(笑)

次に日本。アメリカとは違い、日本の保守(あるいは右翼)は過去に遡ります。ただし遡るのはせいぜい明治までであり、幕政復古を唱える保守(右翼)はおそらく存在しません。つまり日本の保守(右翼)は、明治維新から戦前あたりまでの過去を理想としているわけです。

次に私が調査した南の島。この島すでに近代化の洗礼を受けています。しかしあまりに人口規模が小さい(約7,000人)ので、革新や保守が一定の政治勢力として成立しない(笑) だからこの島では、近代的世界を理想とする人や、伝統と近代の接合を理想とする人や、近代的世界と伝統的世界を区別するのを理想とする人や、伝統的世界への復古を理想とする人が、喧々囂々やってます。

なんだか話がそれてしまいそうなので、強引にまとめます。近代化の波を早く受けたところでは、保守も近代を自明視している。しかし近代化の波を最近受けたところでは、保守が近代と対立してしまうことがある。このような傾向は指摘できるかもしれません。

Posted by: ノリタケ | March 27, 2009 11:53 AM

それから近代以前の伝統社会の変化ですが、これには生態環境の変化が非常に大きな影響を与えることがあります。

私が調査した南の島はかつて、焼畑ヤムイモ栽培を主な生業としていました。このことは考古学的調査から立証されています。

ところが人口の増大によって焼畑のサイクルが短くなり、ついには土壌が荒廃してしまった。それに伴い、ヤムイモ栽培からタロイモ栽培へと転換したと考えられています。そしてそれはせいぜい200~300年ぐらい前のことだろうと推定されています。それを裏付けるかのように、島にはタロイモ田の造成に関する昔話が残ってたりします。

現在この島は父系的な考え方が強いですが、同時に母系的な考え方も存在します。これについては、かつては母系的な焼畑農耕社会だったのが、タロイモ造成に伴う男性の労働力の重要性が高まり、次第に父系的な考え方が芽生えてきたのではないか、という仮説が提示されています。

しかしこうした生態的な変化と違い、近代化は社会的・政治的・経済的変化です。この質的な差異は見逃してはならないと考えます。

Posted by: ノリタケ | March 27, 2009 12:07 PM

>ノリタケさん
azumaさんのエントリーのコメント欄を借りてお話を伺うのはちょっと後ろめたいのですが、あまりにおもしろいお話なので、こちらの考えがまとまらないまま、いくつか思いついたことを。

「保守」と「革新」の定義について、人類学の方ではなにか定説があるのでしょうか?ノリタケさんが定義するところの「保守」を意図した社会変革は、やはり保守なのでしょうか?それとも革新なのでしょうか?日本の例を引くと、まさに明治維新の時には「王政復古」が叫ばれたわけです。つまり「日本の政体を本来あるべきところの天皇親政に戻す」ことをスローガンに、行われたのはかつてない革新でした。

また、ヴィスコンティの「山猫」ではないですが、「変わらずにいるために変わらなければならない」という問題意識での変革もあろうかと思います。あるいはかつて実現したことがない理想が、どの範囲で実現したことがないのか?外国には理想の体制があるというときに、それを模倣しようというのは、空間軸を時間軸に置き換えれば保守的な革新でしょうか。

>近代化の波を早く受けたところでは、保守も近代を自明視している。
このご指摘はなるほどと思いました。ただ、これは時間で説明するべきものでしょうか。私はやはり、佐賀、神風連のふたつの乱のように、近代という社会システム、そこで駆使される技術力や組織力に圧倒されて、社会が近代に「魅了」されたのではないかと考えます。力ずくで近代のパワーを見せつけられることがなければ、ずっと保守は近代と対立しているかも知れません。ノリタケさんがおられた南の島では、例えば近代科学技術の粋を以て快適な生活を味わい、その便利さを手放せなくなり政治信条が変わった保守層など、いるということなのでしょうか。

それとダイアモンドの本でもそれらしき表現が出てきますが、社会的・政治的・経済的変化も元を正せば生態的な変化の反映である、ということを彼は言おうとしているようで、実は自分もそれには共鳴するところがあります。あるいはその島で農業の機械化が進み、女性でも食料生産が困難でなくなれば、また母系社会に戻るかも知れないですね。

Posted by: エム | March 28, 2009 12:00 AM

Azumaさん、この場をお借りしての議論、すいません。

>エムさん

>「保守」と「革新」の定義について、人類学の方ではなに
>か定説があるのでしょうか?

いえ、全くないと思います。上で述べたのはあくまで私見です。「保守」という言葉、本当は「右翼」とか「民族主義」とか「伝統主義」といった言葉を使いたかったのですが、「革新」の対義語はやはり「保守」だろうということで、この言葉を使ってしまいました。そのため無用な混乱を招いてしまったかもしれません。

私は、明治の王政復古は近代化の過程で成立した「創られた伝統」であり、近代化以前、つまり江戸時代の天皇制とは質的に異なっていると考えています。

>外国には理想の体制があるというときに、それを模倣しよ
>うというのは、空間軸を時間軸に置き換えれば保守的な革
>新でしょうか。

私は、空間軸を時間軸に置き換えるのは誤解を招くと考えています。19世紀の非実証的な社会進化主義の罠に陥ってしまう可能性があるからです。通時性と共時性とは、区別しておく必要があると考えます。

>>近代化の波を早く受けたところでは、保守も近代を自明視している。
>このご指摘はなるほどと思いました。ただ、これは時間で
>説明するべきものでしょうか。

近代化の波が押し寄せた時期は、地域ごとに違います。システマティックな近代化は、日本では19世紀中頃に達成されました。ところが太平洋地域では、第二次大戦後しばらくたってから、しかも植民地政府によって達成されました。

近代が人々を「魅了」するとという側面はあると思います。特に貨幣経済。カネさえあれば何でも手に入るというのは、島の人々を大いに惹きつけました。

しかし政治制度については、先に述べたようにさまざまな立場が混在しています。しかし大筋の議論は、伝統と近代の接合を理想とするか、それとも近代的世界と伝統的世界を区別するかといったところに収斂しているように思われます。

>あるいはその島で農業の機械化が進み、女性でも食料生産
>が困難でなくなれば、また母系社会に戻るかも知れないで
>すね。

社会変化の予測は非常に困難であり、また私の最も苦手とするところなのですが、農業の機械化が進んだとしても、母系社会に戻ることは当面ないように思われます。というのも、土地相続が父系的に行われていますので。

Posted by: ノリタケ | March 28, 2009 12:55 AM

言葉が適切でなかったために混乱したであろう点を、改めて整理します。

未だ実現したことのない未来像を目指すにせよ、かつて実現していたであろう過去像を目指すにせよ、いずれも社会変革であることには変わりはありません。ですから、字義通りの「保守」からすれば、いずれも脅威になりますね。

かつては左翼のヒーローだったレーニンも、日本の大物右翼だった井上日召も、等しくテロを肯定しているのは実に示唆的です。

Posted by: ノリタケ | March 28, 2009 03:52 PM

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