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生物学的な母の困難

映画「クリーン」を観た。

ドラッグで夫を亡くし、幼い息子の養育権も失うアジア系女性の物語り。トロント、ロンドン、パリ、サンフランシスコをめぐって、展開するストーリーはトランスであるより、むしろオリジンに向かっていた。それは、母と子の自然的な紐帯。

なめたオイディプス的なボヤキになってしまうかもしれない。物心つく前に両親が離婚した僕は、生物学的な父母の物理的な別離に際し、自己決定したわけではない移動や関係をずいぶん複雑に繰り返してきた(と教わっている)。色々ありながら、最終的には生物学的な父親と、彼のその後に婚姻した妻=僕の社会的な母親とともに暮らし、なんとか育ち、18歳までの時間を過ごした。それからは、基本的に(親や国や職場に援助を受けながら)独りで生活を営む日々を今日まで営んでいる。

もうすぐ、その独り暮らしに終わりが訪れて、婚姻関係を構築することになっている。それは、何度もこのブログで語ってきただろう。婚姻関係が社会的に承認されるための儀式について、僕はこれまでとにかく否定的だったし、まさか自分がそんな儀式を必要とするとは思わなかった。が、諸事情あり、目下、結婚式の様々な準備に追われている。

嫌なこと、面倒なこと、イデオロギー的なことは山ほどある。今日はそれを愚痴る気はない。反対に、うれしいのは、これまで不完全な僕と、どちらかというとデメリットが多い関係を継続してくれた親族や友人たちに、一応の社会的なステイタス変更の現場に居合わせてもらえるということ。つまり、最近始めたゲストへの招待。絶対に婚姻関係を結ぶパートナーなんて見つからないと思っていたし公言していたから、見つかっちゃいましたと伝えるのは恥ずかしいんだけれど、でも「おめでとう」の一言がうれしい。早くみんなに、伝えなくっちゃ。

けれども、残念で、消化できないことが1つ。それが、上に書いた僕の家庭環境。端的に、生物学的母親は、呼ぶことができないということ。いや、呼んだとしたら、色々すごく面倒なことになってしまうから、その面倒を僕が回避しようとしていることへの苛立ち。「こちらの母が生物学的な母親で、こちらが社会的な母親です」とリベラルに、フランクに伝えられるはずの生き方を続けてきたけれど、どうも無理みたいだ。きっと彼女には招待状を送らない。送れない。

人類学者として、生物学的な、社会的な親族関係を様々見たり、聞いたり、記録したり、伝えたりしてきた。日本の社会において、結婚式で、生物学的母親と社会的母親を1つのテーブルに座らせることの難しさも、もういい歳なんだからよくわかっている。そう、よくわかっている。

映画を観て、脊髄反射的に書いてしまった自分への嘆き。「あなたはそうやって、おじさんになっていく」。

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Comments

まあ、ともあれ、おめでとうございます(と片付けられたくないさまざまの思いがきっとあるだろう、ということは承知の上で、おめでとう、といっておきます)。

おじさんになっていっても、いいではないですか。どういうおじさんになるか、ですよ、多分。

Posted by: Sammy | February 12, 2011 11:49 AM

とにかくどういう事情があれ、「おめでとうございます」。
難しいことだと思います。
親子だから悩むのだと思います。
これが人ごとであれば、また違った答えも出てくるのかな?
でもこの事実で、自分自身を責めることはしないでくださいね。
人は生きて行く上で、どうしても解決できない問題もあるものです。いえ、解決すべき問題かどうかすら分からないこともあるものです。
一番は、今の自分が後悔しないこと。
ただそれだけかな?
例えば本当のお母さんや、社会的なお母さん、ましてやお父さんがどう思おうと、自分自身が後悔しないように・・・。
それで結論を出しているのであれば。
それでいいのではないでしょうか。
親との問題・・・色々なところで出てきますが。
あまり悩みすぎるといけないですよ。

Posted by: Mikarin | February 12, 2011 02:51 PM

Sammyさん、

ありがとうございます。できるだけ「自覚的」なおじさんになろうと思います(笑)。

Mikarinさん、

もちろん自分(たち)の満足も大切ですが、婚姻については世界中のいたるところで、個人と親族の間の葛藤がみられます。僕もその例外ではないということなんだと思います。

Posted by: azuma | February 13, 2011 02:19 PM

おめでとう!
ついに結婚か~小さい頃(?)の記憶しかないが、
逆に三つ子の魂のエッセンスのみが印象に強く残っているせいか文脈から今の心境に至るケンタロが想像できるのが面白い。
個人的には
「ケンタローがケコーン?!(°▽°)」な感じw。

面倒なことになるのはわかるが、では彼女の立場ならどうしたいだろう?という考察がされていないのがらしくないね。

その切り口で〆てもらわないとこのブログはもやっとするぜ~

以上嘆きへのぼやき。

Posted by: HARRY | February 18, 2011 12:38 AM

おめでとう! 
両親の婚姻についてのことは私も 大なり 小なり経験しました。 おそらく 今後のかかわりが大事かなっと勝手に思っています。

 ぼくもなんとなく常に調整しているような感じが・・・。またあったとき詳しく話しますね。

Posted by: masa | February 18, 2011 10:52 PM

>HARRY

結婚はしない/できない予定だったので、僕もびっくりです。

たしかに、いわれてみれば不思議なほど、この国の結婚に関しては「家族」とか「親族」のレベルで語られることが多く、僕自身もパートナーの立場で考える機会が少なくなっていると思います。

一方で、家族も親戚も関係なく「彼女はこうしたいと希望しているんだ!」と主張すれば、それはずいぶんカップル中心主義に映るんだろうとも。

文化や社会、そして個々人の関係の結節点に、同時に位置を占めてしまう結婚というシステムの難しさでしょうか。よく考えてみます。

>masa

人類学者だからこそ感じる理解や反感があるような気がします。ぜひ、次の機会にアドバイスを。

出版、おめでとう。僕はもう一息って感じです。

Posted by: azma | February 21, 2011 03:11 PM

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